藤木正三 師の断想から考察される宗教との付き合い方

藤木正三師の考え方のポイントは「納得の福音、限界性の福音」と形容されるのではないだろうか。それは今後の信仰にあり方にヒントを与えてくれるものだと思います。

個別性を重視する、だがどこまでも絶対視しない。それが限界性であり自分の納得なのです。言語の持つ限界、人間の処理能力、本能との軋轢など人間はさまざまな制約下にしか一時たりとも生存できません。その人間が永遠を考えることの落差こそが、優れた芸術・文化を生んできたし宗教も憧れとしては最適な古典でしょう。

その葛藤のなかでずっと生きることが人間存在の原点になることは予想されます。安易に宗教を論じることは極めて誤解を生みやすく難しいことです。

とかく日本人にとって信仰とは、「疑わないで信じる姿勢」という強迫観念が強く、それが自分を縛り抑圧することが大きな誤解のもととなるのでしょう。ただ人生とは極めて曖昧であり、何が成功であり失敗なのか、大事なことが些末なことか等は分からないものです。

ところが誰か権威ある存在に、その外枠を示し決めてもらうとずっと安心できるのが人間心理なのかもしれません。そうしたものが成文化し体系づけられたゆえに強固になり、時代により解釈次第で揺れ動くというのが人間の歴史なのでしょう。

「不信仰を恥じて」抑圧する人がいると思えば、一方で「強固な信仰を抱いている」とし他を抑圧していても全くそのことに鈍感になる人と両極端になるようです。ただ宙ぶらりんなところ、グレーゾーンにおいて何とか生きる真実のホンの一部だけが見つけられるという物事の本質理解は一般的ではないようです。

宗教の求めることは平安であり悟り・気づきであると言われています。例えば禅などで「悟る」といいますが、大きな誤解は悟るというのは一瞬の話であり、悟りを得ても持続できるわけではないということです。小さな悟りを積み重ねることがかろうじてできる余地はあるものの、その後も迷ったり疑ったりするのが本当のところであり、それを言わない宗教者はずるいと思います。

また宗教者の暴力ということはもっと議論されるべきテーマであると考えます。その隠された権力性を本来暴いたのがイエスの言動なのですが、同じことに躓いているようです。上から語る宗教の大義は、宗教者の語る動機・内容が実は自らの強い欲求の発出であることを自覚できないことが致命的なことです。

イエスは教義も大組織も何もあえて残さなかったのが正解でありましょう。誰もが自らをイエスとして生きてゆく、つまり自分を拠り所として納得したことを信じ行っていくことが大事でしょう。ただ前提として社会が執拗に教え込むものから捉われていない場合にしか有効ではありません。

これからは宗教組織中心から個別主義になっていくという流れは期待されることですが難しいのではないかと感じます。組織の持つ固有の問題は人間が出現してから解消されていません。それよりも組織の持つ問題を客観的に把握し、それとの距離感を適度にとる個人個人のあり方があるだけです。それは時代を超えた生き方であり勇気を持ってやっていくしかないでしょう。

自分を投げ出していく姿勢も求められるのが宗教でありますが、何でも言われてことを鵜呑みにすることや思考停止に置くことではありません。イエスの言われた「真理はあなたを自由にする」という意味を再度思い起こしたいものです。つまり、あなたの全てを解放できるものであることが必要でしょう。

納得できることを行っていくこと、だが絶対のものはないという弁えを持つことが極めて重要であります。藤木師の断想集は納得できる言葉の宝庫です。人間存在を冷徹に見つめて、そこから湧き上がる限界こそが神(大きなイノチ)を実感するという喜びであり、かろうじて人間が人間でいられる位置でありましょう。

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