「振り返ること」と「自粛」

自 粛

その日、堂島川の水面は初夏の午後の陽ざしに眩しいば
かりでした。エイトを漕ぐ若者達の声は、阪大病院四階
にまで聞こえました。たしか土曜日であったと思います。
OL達のさゞめきが、勤めを終えた開放感を乗せて、こ
れもよく聞こえました。母の死んだ「その日」、世間は
全く明るく、無関心に日常的でありました。何らかの自
粛をしてくれるはずと思い込んでいた世間の思いがけな
い一面に、心は衝撃で真白、粛然としました。「その日」
自粛すべきは、先ずは「その日」を迎えた本人でした。
人はひとり自粛して死ぬのです。


『命はどこででも輝く』(『福音はとどいていますか』第一部、合本、ヨルダン社)23頁


藤木正三師のご母堂様の最期を示した、この断想はその心情を風景を交えて記述した断想としては珍しいものです。

私たちは社会、家族、個人という単位で生きています。この断想に如実に表現されているように私たちが、いつも気にしている社会=世間というものは、影響を受けているようで実はそれほどのものではないのかもしれません。

家族の不幸という大きな出来事も、実は社会にとっては変わることのない日常の一コマであり他人ごとに過ぎないという厳然とした事実。

誰もが、毎日の生活を必死で行っている姿と目の前の母の死のギャップは誰しも一度は経験することかもしれません。ただ、このような心情を書いた人は私は他に知りません。

見ず知らずの方の生死を想うことは不可能としても、関わりを持った方の生死に関しては関心を持ちたいと思うものです。

藤木正三師は別の書籍で、振り返ることの重要性を説いています。キリストが磔刑になり死んで弟子たち信者らは、それぞれの行動をとりました。その最中に彼らが思いだしたのは、イエスの今まで自分に関わってくださった言動・行動の一つ一つでした。

それを振り返っていった時に彼らは気づいたのです。イエスが生きている間には気づかなかった大切なことに。そして彼らは再び生き直してイエスの生涯を伝えるべく活動を再開したのです。

復活の意味は、実はここにあり、生物的に死んだものが再び生命を得たということではないのです。

一人一人の心の中で、人との出会いや共に生きた時間を確認することで、自分に与えられたものの豊かさに気づくこと、そして限りあるものとして同じように生きることを促されることであろうと、私は感じています。

振り返るとは、過去の反省をしましょういう表面的なことでなく、今まで自分が生きてきた偶然性が実は必然性を伴っていたことに気づくこと。今ある自分に納得し肯定し受容する作業であります。

すると、すべての物事の見方が変化を遂げるのです。宗教の説いていることは、そこに帰着します。

追記
復活の解釈については異論もあろうし一般的なキリスト教の解釈ではないことは承知の上で私見を述べている。この復活こそがキリスト教の神髄と考える人たちも多く復活がなかったなら、そもそも希望そのものがないという見方だ。

つまり人間が死を克服できることに宗教の意味を見いだしているわけで、それが実現するのは来世であったり天国であったり、または現実世界であったりと考え方もさまざまだ。

また過去の記憶を持つ子どもたちがいるという真面目な研究もあり、復活や輪廻転生については様々であり、信じる一人一人が違った思いをお持ちに違いない。

ただ私は、そうしたことを踏まえても復活は、誰かが自分自身の中に生き続けるようなこと、それは時間・場所を超越した神秘であると考えている。復活の表面的な記述の奥に書かれているのは人間の連関をつなぐ神秘なのではないだろうか。

人間の肉体は限りがあり永遠に再生できるわけではない。また宇宙が永遠であるとも思わない。永遠とは時間の世界を超越した何かであり、復活はその世界に気づいて生きるということなのではないだろうか。

追記
人はすべからく 終生の師をもつべし。
 真に卓越せる師をもつ人は 終生道を求めて 歩きつづける。
 その状あたかも 北斗星を望んで 航行する船の如し

 森信三(哲学者)

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