毎日不安。自分に合う宗教をどう見つけるか

毎日不安。自分に合う宗教をどう見つけるか 「賢く生きる」ための全課題
2014年5月6日 プレジデントオンライン  ※RESIDENT 2012年1月2日号掲載
浄土真宗本願寺派住職、相愛大学教授 釈 徹宗 構成=西川修一

■無防備な自分に帰れる時間と場所

東日本大震災以降、それまで接したことのないマスメディアから、心の持ち方について聞かれる機会が増えました。あの限界状況を目の当たりにして、生きることにとって大事なのは何か、仕事とは何か、などと物事のプライオリティ(優先順位)の組み替えを迫られた人が多いと思います。

震災の影響だけではありません。今後は高度経済成長も望めず、低成長時代を生きるという覚悟を決めるべきではないか、そのためには新しい指針が必要ではないか、と誰もがぼんやり思っています。“今日より明日”の進歩に価値をおくのではなく、“昨日と同じ今日が過ごせれば幸せ”と、アクティブでない現状維持の状態をみんなで協力しながらつくっていこう、という感性を、特に若い人が持ち始めている気がします。

そのための指針として、宗教や占い、スピリチュアルなものに目を向けるのは十分理解できます。

宗教は、社会とは別の価値体系を持っています。社会的にはネガティブなものを、宗教が高く評価することがあります。

例えば、今の日本社会のように、自己決定が行動原理となる社会では、自分というものを強く持ち、自我を主張しなければ生きていけません。これはかなりきついですよね。しかし伝統宗教では、「自分というものが強ければ強いほど、苦しみは強くなる」などと言う。「今泣いている者こそ幸せだ」「貧しき者こそ幸いである」というイエスの逆説的な言葉も同様で、こうした別の価値観を持つことが、救いになるんです。

仏教、キリスト教、イスラム教、儒教など長い年月を生き抜いてきた伝統宗教は、いずれも苦悩の人生を生き抜くための智慧の結晶であり、苦しみを引き受けざるをえない智慧の体系でもあります。放っておくと肥大化しがちな自我というものが今、どこに立ち、どちらを向いてどういう状態にあるのかを点検する術を、伝統宗教はたくさん持っているんです。占いやスピリチュアルなものも悪くないのですが、簡単に手に入るものは簡単に折れてしまうと思います。

イスラム最大の歴史学者、イブン・ハルドゥーンは、「宗教の毒を避けるためには、いったん伝統宗教を学ばねばならない」と言っています。僕もその通りだと思います。信者になれということではありません。社会とは別個の価値観を持つがゆえに、信教は危ないといえば危ない。下手をすれば社会に適応できなくなる。伝統宗教に耳を傾けるのは、そういう危ないところを避けるためです。これは、正しい宗教と間違った宗教があるというのではなく、どの宗教にも危ないところと素晴らしいところがあるという意味です。

伝統宗教のお話は、できれば教会や寺院に直接聴きにいってください。それには理由があります。海に行けば海の宗教性、山に行けば山の宗教性……と、その場その場を感じ取るアンテナが発達しているのが我々日本人の宗教性です。

ところが、今は逆に自分でバリアを張らないと、傷ついてばかりでボロボロになってしまう。だから、そのバリアを取り去って無防備な自分に帰れる時間と場所が、今のあなたの日常にあるかどうか。それが大切です。仏や神に無条件で抱かれる時間があれば、生きる辛さも少しは緩和されます。

そういう場に身をおくには、宗教性・文化性豊かな古典芸能もお勧めです。発信しているものは微かですから、見る側がセンサーの感度を上げないと楽しめません。その微かなものを感じているうちに、どんどん奥行きが見えてきます。特に落語は宗教も笑いものにする成熟文化。伝統宗教の二枚腰、三枚腰と、宗教を笑いものにするセンスを備えれば、おかしな宗教に引っかかることもないでしょう。

ちなみに、危ない宗教団体を見分けるには、ネットなどで訴訟問題や被害者の会の有無を調べるといい。そういう団体には基本的に近づかないこと。自分は大丈夫だと思っていても、勧誘の手口には巧妙なものがたくさんあります。本気で狙われたら、ちょっと逃げられません。

浄土真宗本願寺派住職、相愛大学教授 釈 徹宗
1961年、大阪府生まれ。大阪府立大学大学院博士課程修了。NPO法人代表として認知症高齢者のケアも行う。


・記事では、東日本大震災をきっかけに価値観の見直しが起こり精神世界に対する興味も増えていることを指摘。そして宗教は別の価値観を提示するものとして、その関わり方をアドバイス。特に騙されることも懸念して伝統宗教からはじめて対応の仕方を学ぶ必要を説く。

加えて宗教性・文化性の高いで古典芸能も日本人の生き方に深く関わる精神性を秘めているのでお勧めということだ。

私が感じることは、信仰を持つとかでなく、自分自身を見つめる空間・時間を持つことがより本質的に大事なことなのだろうと感じる。

私のように独り静かに過ごすことが心地よい人間もいれば、大勢で集まって歓談したり歌や踊りをすることが好きな人もいるから様々だ。

危険か危険でないかは本人次第のところがあり、例えば旧・オウム真理教に未だに関わっている人たちがいることを考えれば信じ方問題だということになる。宗教がより原理化すれば社会との軋轢を生むことは仕方のないことではあり、それを乗り越えた仏教・キリスト教・イスラム教が国家宗教までに変貌したのが歴史である。

私は小難しい理屈よりも、人間がなぜ生きるのか、なぜ悪が栄えるのかという疑問が誰にもあるからだと思う。

蛇足であるが、このところ名人といわれた昭和の落語家のものをずっと聞いている。いずれ、そのことを書きたいと思っている。日本人の忘れられた対人関係の作法や風情を想像させてくれるだろう。

なお以前に書いたように落語の起源は仏教の説教にあり、その題材も仏教説話や中国の古典などに依拠している。だから宗教を笑いものにしているのではなく、宗教から落語などの口承演芸が起こったと捉えるのが筋だろう。

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