人生いろいろ:身代わり観音

† 東京藝大美術館で「長浜のホトケたち」という展覧会が終わった。観覧した方の話を聴いて痛く感じたことは、この地域では寺院が廃絶した後も地域住民が観音様を守り伝えてきたことだ。その中に身代わり観音といういわゆる豪華な仏像とは一線を画する展示もあった。仏像を敵の手から守るために田んぼに沈めて守ったという観音像は以来、洗うという習慣が根付いてボロボロの様相であるが皮膚病などの疾患からの平癒を願う人たちの信仰があるという。

‡ 身代わり観音以外にも身代わり不動、身代わり菩薩など、人の苦しみを代わってくれる存在が信仰の対象となることは理解できる。イエス・キリストも病人に触れて癒したとする記事があるが、それは同様なものに違いない。それは強者から与えられるというよりは、弱者の方から、それを信仰すれば必ず良くなるという強い信念が身体症状に何らかの回復力を得させるのだろうと理解してよいのだろう。自らを空しくして衆生に尽くすという姿勢を現代の宗教者たちは持っているのだろうか!?



観音の里の祈りとくらし

観音の里 びわ湖・長浜  http://kitabiwako.jp/kannon/

20140414

観音の里の祈りとくらし展 びわ湖・長浜のホトケたち
2014.3.27 産経新聞

 ■平安時代から守り継がれて

 琵琶湖の北に位置する滋賀県長浜市は、約130もの観音菩薩像が伝わる「観音の里」として知られる。主に平安時代に造られ、千数百年もの間、地域住民の手で営々と守り継がれてきた「私たちの観音さん」18体がこのほど、東京芸術大学大学美術館(東京・上野公園)にやってきた。すべて東京初公開、うち3体はお堂の外に出たのも初めてという。造形美だけでなく、人々の中に息づく「祈りのすがた」に触れたい。(黒沢綾子)

 古くは奈良や比叡山天台勢力の影響下、仏教文化が栄えた湖北地方だが、なぜ観音菩薩像が際立って多いのかわからない。ただ古来、近江国の鬼門に位置する己高山(こだかみやま)(長浜市)が山岳信仰の拠点で、その主尊が十一面観音だったことから、観音信仰が盛んになったとみられている。また「観音様は仏の中でも現世利益に寄り添う存在として、特に民衆に親しまれたのでは」と語るのは、長浜城歴史博物館副館長の太田浩司さん。

 もともと観音像を造らせたのは、平安時代にこの地にあった大寺院という。しかし、その多くは近世までに廃絶。以降、観音像は村の守り本尊として村落共同体に受け継がれた。太田さんは「近江の国は昔から生産性が高く、惣村(そうそん)という共同体が発達、村人の力が強かった。中世、近世の村人の力があったからこそ、観音様は現在まで守り継がれた」と説明する。

 しかしながら、近江は京都から東国に抜ける要衝にあたり、特に戦国時代は幾多の戦乱や天災に見舞われた。長浜は知将、黒田官兵衛とゆかりの深い地でもある。

 黒田家発祥とされる地にある安念寺からやってきた2体の仏像は、いずれも原型がわからないほど朽ちている。地元の伝えによれば、織田信長の比叡山焼き打ち(1571年)で、末寺である同寺も焼失。村人らは間一髪で仏像を運び出し、田に埋めて隠したのだという。

 16世紀後半に廃絶した赤後寺(しゃくごじ)の本尊と伝えられている千手観音立像(重要文化財)も、戦禍をくぐり抜けた逸話がある。当初は十一面四十二臂(ひ)(腕)を持つ典型的な千手観音像だったと推定されるが、今は頭上面が失われて髻(もとどり)が補われ、腕も12本しか残っていない。羽柴(豊臣)秀吉が柴田勝家を破った賤岳ケ(しずがたけ)の戦い(1583年)の際、村人が近くの川に一時的に沈めて守ったからだとされる。

 観音像の所蔵先になっている寺の大半は無住寺院。地元の人々は自治会ごとにお堂を整えるなど献身的に尽力し、「守るというより、守らせていただいている」と口をそろえる。病の治癒や安産祈願など人生の節目だけでなく、「観音への祈りが生活の中に息づいている」と藤井勇治・長浜市長は言う。

 近年、各自治会の人数は減少傾向にある。また、平成24年度には長浜市内で4件の仏像盗難事件が発生。防犯・防火対策や文化財保護の観点からも、幅広いサポートが必要だろう。

 今回、観音像を東京で展示する意義について、東京芸大の薩摩雅登教授は「こういう信仰があることを広く知ってもらう。それが、文化財保護の外堀を埋めていくことになる」と話している。


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