ローマ法王、同性愛司祭の存在に理解示す

ローマ法王、同性愛司祭の存在に理解示す
2013年7月30日 ウォール・ストリート・ジャーナル日本版

 ローマ法王フランシスコは28日、同性愛の司祭について「裁く」つもりはないと述べ、ローマカトリック教会内の「ゆるし」の新時代への扉を開いた。ローマカトリック教会は、教会内での同性愛者の存在という問題に何十年も苦慮している。

 法王は28日、初の外遊からローマに戻る途中の機内で、同性愛者だが性的行為はしていない聖職者にカトリック教会がどう対応すべきか、というデリケートな質問に答えた。そうすることで法王は、同性愛司祭に対する歴代の法王の姿勢から一歩踏み出した。

 法王は機内で急きょ開かれた会見で質問にイタリア語で答え、「神を求める善良な同性愛信者の場合、わたしに彼を裁く資格があろうか?」と語った。また「こういった人々を隅に追いやることはできない」と述べた。

 法王はこの会見で、同性愛の行為が「罪」だと述べて教会の教えを再確認した。しかし同性愛者そのものは「裁く」つもりはないと述べることで、法王は自身の強大な力を用いて、ローマカトリック教会が同性愛をどう捉えるかに関するトーンを変えた形だ。

 ローマ法王庁(バチカン)のアナリストによると、ローマカトリック教会で同性愛の司祭を擁護する発言をした法王はこれまでに1人もおらず、歴代の法王は同性愛がpriestly celibacy(司祭の独身主義、禁欲)の障害になっているとの見方をしてきた。バチカンは1986年に同性愛が「客観的な障害」だと定義しているほか、現法王の前任者であるベネディクト16世は2005年に「根深い同性愛傾向」があると思われる男性が聖職に就くことを正式に禁じた。

 教会史学者Alberto Melloni氏は、フランシスコ法王が「教義的に物事を捉えておらず、人間のありのままの姿を深く尊重している」と述べ、今回の同法王発言を評価した。

 ボストン・カレッジの神学教授を務めるJames Bretzke神父は、「これは教会の教えが変わったことを示すのではない」と述べ、「重要なのはスタイルと力点が変わったことだ」と付け加えた。

 ニューヨークのティモシー・ドラン枢機卿は22日、同性愛についてフランシスコ法王と同じ見解を示し、司祭の同性愛に関しては「その人が高潔で清らかな生活を送っているのであれば、わたしには問題ない」と述べた。

 フランシスコ法王は1週間にわたるブラジル訪問を終えて、バチカンに戻った。ブラジルでは、ロックスターのような歓迎を受け、28日にリオデジャネイロのコパカバーナ海岸で行われたミサには推計300万人が集まった。

 アナリストたちは、このような支持者の歓迎ぶりは、フランシスコ法王がバチカンでバチカン銀行の汚職や長年にわたる性的虐待といった数々の難題に直面している現在、同法王の影響力が強まる公算が大きいと述べている。

 機内で80分間会見したフランシスコ法王は、前任者の任期内に発生したあるスキャンダルに長い時間を割いた。つまり、秘密のバチカン・リポートがイタリアのメディアにリークされたことで、同性愛者であるバチカンの聖職者の一団が「同性愛ロビー(圧力団体)」を結成し、バチカン内部で秘密裏に策動しているという内容だ。

 フランシスコ法王は、この件に関するバチカンの内部調査結果を今年2月に退任したベネディクト16世と協議したことを明らかにした。同法王によれば、ベネディクト16世は退任直前、80代の枢機卿3人が作成した内部報告書の書類や証言が詰まった箱をフランシスコ法王に手渡したという。

 フランシスコ法王は、バチカン内に圧力団体が存在する可能性と、バチカン内に同性愛者の司祭がいる可能性とを慎重に区別した。そして前者、つまり圧力団体が存在する可能性については「問題だ」と述べた。

 同法王は「ある人が同性愛者だという事実と、ロビーが存在する事実とは区別する必要がある」と述べ、「問題は、そういった(同性愛)志向を持つことではない。ロビーを作ることが問題だ」と付け加えた。

 フランシスコ法王の発言は、カトリックの司祭が直面する最大級の難題の核心に切り込んだ形だ。同性愛の司祭の比率を示すデータは限られている。米紙ロサンゼルス・タイムズが2002年に米国のローマカトリック教会の司祭を対象に行った調査によると、司祭の15%は自身が同性愛者である、ないし同性愛に傾いていると回答した。

 教区を統治する司教(司祭)の間でも、清廉な、つまり同性愛行為は決してしない同性愛者の司祭を受け入れるかどうかをめぐって意見が分かれている。司教の中には同性愛に寛容な者もいるが、バチカンは同性愛の男性が聖職者になることを禁じているため、自らの性的志向を教会上層部に秘密にせざるを得ない状況に置かれている聖職者も少なくない。【ローマ】


・少し前の記事である。

一読しても分かりにくい内容で、同性愛者と同性愛者の行為を同じ人間が分けて考えているのだろうか。同性愛者であっても行為をしなければOK!? 行為ありきという考え方は、つまり神学的には男色はNO!という立場は維持するということなのだろうか。

それにしても前記事のように欧米の各国で同性愛者の婚姻が認められ権利を持つとする流れの中で、聖職者の児童に対する性的虐待というショッキングな事態が現実にあったこととの乖離はカトリック教会はじめとする宗教者には大きな問題である。

宗教の縛りがないならば、社会は放縦な性文化と成り果てるのであろうか。それとも解放することで隠されている性衝動が昇華されて新たな人間関係を構築していくのだろうか。

厳格なイスラム国家では女性の権利など認めていないところがある。広く世界を見渡せばいろいろな思想と社会体制があるもので少なくとも、どういう生き方を選択していくかが本人の意志も尊重されて考える社会が理想である。同性愛=罪という短絡的な見方は、もうやめたい。

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