藤木正三 師の言葉から学ぶために④

藤木正三 師の言葉から学ぶために④
~〈納得の福音・限定性の福音〉をめぐって~


言葉・概念化の問題
人間は言語を使って生きているが大きな問題を抱えている。言語は概念という抽象化した認識体系を用いる。ところが、その語感のイメージは誰もが同じではないのである。すべての事柄が概念と言われるもので意思疎通される。その概念化という作業が、科学・技術の発展には不可欠であったことも事実である。物事の背後に隠されている法則を明らかにすることが文明の進歩に与えたインパクトは大きい。ただ概念は実体と同じものとは言えない。つまり言葉は概念であることを熟知して応用できる人でないと間違った使い方になり、それを受け取る人も影響を受けてしまうのだ。割り切って使っている何でもない言葉を深く考えれば分かるが、結局、言語を説明するのには言語を用いるという矛盾から解き放たれることはない。概念をめぐって堂々巡りの状態となる。それが学問の限界となっていくだけでなく私たちの生きることにも影響を与えてしまう。

さきに掲げた「隣人を自分自身のように愛せよ!」で、「隣人」とは、「愛」とは、「愛する」とは……その言葉を突きつめていくと結局分からなくなってしまうのではないだろうか。それよりも大事なことは、目の前に困っている人がいたら、自然に起きる衝動に従って手を添えてあげることの方が重要なことは分かるだろう。

つまり「野の花を見なさい!空の鳥を見なさい!」と言われたイエスは、抽象的に一般的に花や鳥を想起されたのではなく、具体的に目の前にある一つ一つの鳥や花のことを語ったことに注意を払いたい。聖書の言葉は、万人に書かれたものではなく、あなたのために書かれたものと受け取ることができて初めて分かるものなのだ。

神学者や宗教指導者がする神学論争とは概念をめぐる問題に過ぎない。一方で、信仰とは自分自身の身の処し方、つまり具体的な生き方なのである。その区別ができていないからこそ、概念に封じ込まれて身動きできなくなってしまうという現象に陥ってしまっている。それを打破するには、言葉の概念化という作用を熟知して応用できるような気づきが必要なのである。藤木師が専門用語を用いない理由の一端も言葉遊びに陥る弊害を分かっているため、そして一般用語でも語り尽くせる稀な言語能力があるからだ。

究極的人生態度の確立
藤木師は「究極的人生態度の確立」が信仰の目指すものであるとされる。人間は基本的に自由意志で考えて行動することが許されている。その際に、何を生きる基準として生きるかが課題となる。例えば、相いれない二つの選択肢があった場合にどちらを選んでいくのか、それを毎回ごとでなく首尾一貫したものに備える場合には軸となるものが必要であり、生き方を具体的に整える思索(=究極的な人生態度)が必要となる。その主体としてあなた自身の生きることを裏付けるようなものが宗教的古典である。

宗教的古典には、生きる上での選択肢を考える際に、過去の人間たちの抱えた問題と対処法、その結果を記すことで活きた教訓とする役目がある。聖書には社会的にも倫理的にも違反する人たちが多く登場する。信仰厚い人たちばかりではないのだ。それは人間の抱える問題の共通性であり、罪意識の共有・理解こそが人間同士を融和できる唯一のものであるからだ。

藤木師の著作は自分自身の立ち位置を正確に見抜く必要性を読者に問いかけてくる。そして新たな視点で自己をもう一度見つめてほしい。あなたはあなたそのままであっていい、それしかない、そこから全て始まるのだという思いが届いてくるだろう。(了)

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