藤木正三 師の言葉から学ぶために③

藤木正三 師の言葉から学ぶために③
~〈納得の福音・限定性の福音〉をめぐって~


生命という神秘性
「隣人を自分自身のように愛せよ!」ということが完璧にできる人が、この世にいるだろうか。律法の意味は、「それを順守せよ、そうすれば神の庇護が得られ幸福になれる」ということではないのだ。たった一つの課題さえも人間は達成できないほどに未熟な存在なのだという自覚が全ての出発点となる。

そして自分自身の力ではどうにもならないと悟った時に、実は自分の知力・能力・才能・財産・信仰・努力……など自分自身の力で生きていると思っていたことが大きな間違いであったことに気づく。生かされ、許され、支えられてかろうじて人間としての体裁を保っているに過ぎない自分の存在に気づくときに、被造物としての自覚を得ることになる。藤木師は生命の神秘性に気づくことが宗教心の根底にあることを見抜いている。

自分が選ばれているからではない、自分の行動が聖いからではない、自分の信仰が強いからではない、ただただ生かされているに過ぎない。家族も隣人も、そして動物たちも植物たちも……、その気づきが意識転換を起こす。すると今までこだわっていた自分自身に対するこだわりが少なくなる。なぜなら自分の命は自分のものであっても自分のものではないことが分かるからだ。すると「野の花を見なさい!空の鳥を見なさい!」というイエスの言葉の真意が分かるだろう。イエスの言葉が、聖書解釈の結果ではなく、あなたの心へ直に届くときに、それが福音ということになるのだろう。

自己への納得性
藤木正三師は、神秘的な生命をとても大切にされているからこそ、人を断罪するような言葉を投げかけない。福音をめぐって争うことの愚かさに気づかない多くの宗教指導者たちは、イエスによって何が批難されているかの理由が分からなかった。現代においても教職として語る説教には、当然に教義・教理に準じた内容が含まれおり中には理解できないものもある。それを秘跡や恩寵と言ってありがたがるのだが、それが納得できるものなのかという自然な疑問を抑圧してしまう。理解できないのは不信仰で熱心でないからだと自分自身を恥じ卑下するという結果になる。

ただ藤木師は、あくまでも自分自身のこととしてしか問題にしない。それを「信仰の射程」という言葉で表現されている。つまり普遍性や正統性よりも大事なことがあり、それが自分自身への納得性という表現で、あくまでも限定的に語られる時にのみ何とか成立するものに過ぎない。この距離感が不完全な人間には適当なのではないだろうか。

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