藤木正三 師の言葉から学ぶために①

以下の小論は、藤木正三牧師の思索を分かりやすく紹介したいと思って作成したものである。他にも論点はあろうがコンパクトに藤木師の考え方の根底にあると思われるものを書き記すものである。

現在のところ、藤木師の著作のほとんどが入手できない状況にあり、各自が直に言葉に触れる機会が少ないことは非常に残念なことだ。

それでも藤木師の考え方に興味を持たれる方や共感される方は、心の中でいつか出会えるようにと思い続けてほしい。するとどこからか著作が入手できるようになる。

毎日、いろいろな事件・事故があり多くの難題を抱え将来はあるのかと不安な状態にある。ただ人間は日々の生活を丁寧に引き受けて生きるときに時間の制約を超えて生きている実感を得ることは可能であり、それが全てであるといえる。

それぞれの方が、ご自身の読み方で藤木師の著作と対話され、現実の奥に秘かに隠されている神秘に触れて頂ける時間を持ってほしいと願うものである。

たれプーさん♪


藤木正三 師の言葉から学ぶために①
~〈納得の福音・限定性の福音〉をめぐって~


著作集への招き
藤木正三師の著作を読んで、自分自身の信仰のあり方にホッとしたという方が少なからずいる。心が和らぐとは、それに福音の本質たるものが内在されているからだろう。宗教本来の持つ安らぎのようなものであろうか。

藤木師の説教を聴く機会を持った人は限定される。それでは、それが他の説教者と大きく違うのはなぜなのだろうという疑問が湧きあがる。弱いものが集う礼拝が、かえって信者の心を傷つけるという現象がある。一般的に聖書に記されていることを教えとして受け入れて実行せよと講壇から語る。ところが、それが簡単にできない弱さを抱える人間に対して、さらに追い打ちをかけることにも至る場面がある。それができないのは罪深いからとか悪霊というものが作用しているとか説明をされても納得できるものではない。それは教会において教勢拡大こそが神の御心であり教職は指導者で信者は道具という見方があり、信仰に必要な安らぎを実感できないところから生ずる。

これに対して藤木師の著作に書かれた信仰心のあり方に、ふと従来から正しいと教えられていることの奥に潜む何か暴力的なものを感じ、新しい気づきを与えてくれるのではないだろうか。福音とは何か、そうした問いを自ずと感じさせるものである。信者らは聖書の厳格な説き明かしと厳しいメッセージを期待しているのだろうか、それとも日々の暮らしを後押しする安らぎを感じる生きた糧を求めているのだろうか。

思想家としての側面
藤木師の著作に世界宗教のエッセンスを超えたものを見いだしていくことができるのではないだろうかという気持ちがする。それは思想家として側面といって良いものだろう。難解な思想が多くの人にとっては理解不能であり実用ではないのに比べると、藤木師の著作にある生き方の在りようは、現在の生き方の延長として見通すことのできるものを想起させる。だからこそ人の心に響くものがある。人間の限界があるからこそ、神秘的な生命力たる神なる存在に委ねることが人間のできる唯一のことなのだ。

断想集においては、まるで詩のように短くリズムをもって描写した含蓄ある言葉により、さらに深みのある思いを抱くことができることは幸いしている。藤木師の説教そのものも良く準備されたもので品よく練り上げられた論理性の高いものだ。精錬されたものを直に味わうことで詩を読むような感動が起こる。他の書物では感じたことがない気づきを得られるということこそ卓越した思想の賜物だと感じる。

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