こころの時代~宗教・人生~「“聴く”という生き方」村田久行

こころの時代~宗教・人生~「“聴く”という生き方」
2013年4月6日 Eテレ

心の深い痛みを持つ人の話を聴く“傾聴”が注目されている。“傾聴”に20年にわたって取り組んでいる京都ノートルダム女子大学特任教授・村田久行さんにその神髄を聴く。

“傾聴”に20年にわたって取り組んでいる京都ノートルダム女子大学特任教授・村田久行さん(68歳)は、「真剣に聴いてくれる相手がいることで、人々は“生きる力”を自ら引き出せるようになる」と言う。“傾聴”は、末期患者や家族、災害の被災者など、深い心の痛みを抱える人のそばで悩みや苦しみを真剣に聴いて、痛みを和らげようという“心の支援”だ。村田さんが“傾聴”の神髄を語る。

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【出演】京都ノートルダム女子大学特任教授…村田久行
    NPO法人対人援助・スピリチュアルケア研究会 理事長
【きき手】品田公明アナウンサー



・傾聴という行為についての話をずっとしていた。「”聴く”ことはそれだけで援助になる。」この言葉に集約される番組。村田さんは、元来理系人間であり高校で教えていたということだが、生きることへの疑問から再び学んでいった。

村田さんによれば、どのように聴くのかということは重要ではなく、何を聴くのか、なぜ聴くのかという姿勢の方が本質的であるという。そして上手に聴いてもらうと、人は落ち着き考えがまとまり生きる力が湧いてくるという。

人間は、苦しみ・悲しみ・困難・悩みを抱える。医療では、末期がん・認知症・うつなど医師や看護師が行う医療では対処できないことがある。それは身体的、精神的、社会的な痛みに加えてスピリチャルな痛みを複合した全人的な苦痛の状態にあるからだ。そのために、生きる意味がない、生きる価値がない、家族の負担になっているという思いにさいなまれることになる。

傾聴の力は、ライフレビュー(生の回顧)を通して自分を振り返ることで、宗教とか信仰とかを越えたもの「死をも超えた他者の存在」に気づき、大いなる繋がりに目覚めさせる魂の仕事を促すものだという。

以上、私的な要約

私個人の意見では、学問や流派など、さらに宗教や哲学・心理学なども超えて、その中に流れるものをつかむことが大事だと考えている。傾聴という行為は、何も対人援助だけのものではなく、広く人間が自己を確かにする上で必要なことだ。

傾聴といえば、誰かに聴いてもらうことを前提としているが、それは自己との対話でも全く構わないこと。ただ、そうして自己を客観視することは難しいことだ。その点で利害関係のない他人に聴いてもらうことは手助けになることは当然のこと。

ここで大切なことは、いわゆる専門家のように、あれこれとアドバイスすることやされることではない。この答えはこうだとか、こうしなさいという他人の方法や考え方で納得することはできない問題だからだ。

今回の話も目新しいことは特にないのだが、それを学問的に構成しているということ。個人的には感じるのは、悩む人自身が自己を知る過程に過ぎず、それに消極的な関与をすることが援助者には許されることだと思う。

悩んで死んで行ってはいけないのか、往生しなければならないのかという疑問は私にはある。死を前にすれば心が澄んで落ち着く・・・という人もいるだろう。ただ、やり残したこと、家族のこと、死後のことなど分からないことばかり、不安があっても当然ではないのか。

「苦しみがなくなりました」と言われて援助者は嬉しいものだろうか。その辺りが、大いに疑問も残るところだ。つまり苦しみ悩みがあってこそ、かろうじて傲慢な自分を振り返ることができるのではないだろうか。そして決して語られないことは、失敗した事例なのだ。

この番組でも、苦しみが傾聴によってなくなった上に、人間的な深みに到達した人の事例をあげたのだが、そうした人は稀なのではないだろうか。私は人間として受け入れるべきことは受け入れないといけないと思う。その辺りに、人生の意味を考えようとする思惑が援助者にあることに気づくべきだろう。

私が強調したいのは、自己を客観視するために、どのような環境が必要かということだ。その一つとして傾聴という行為でも何かしらの力があるということだろう。傾聴すれば、苦しみ・悩み・困難が消え去るわけない。自分自身というものに気づくことができることがいいのだ。

この番組でうなずいたのは、傾聴する人に何ら背景はいらないということだ。村田さんは、キリスト教を背景にした研修をオーストラリアのホスピスで受け日本でも実践しようとした。しかし受け入れてくれる病院がなく諦めかけたところで、ただ老人の話をすればいいのじゃないかという誘いを受けて実践に入った。

つまり、大事なのは傾聴する人がどんな人であっても良いということになる。なぜなら、適切なアドバイスをする必要もないからだ。話す人が、話すことで自己の感情を知り、歴史の繋がりを感じ、他人との関係性を再発見することは本人しかできないことだからだ。

そこに技法やノウハウがあるはずはないのだ。相手の中にある生きる力を信じること、そして相手も自分も何らかの限界や弱点を持つ人間だという自覚さえあれば誰でも傍らに寄り添える。傾聴などと、もったいぶった言い方も必要ないかもしれない。悩む人・傷ついた人に寄り添うという人間本来の行動をすればよい。

番組では、現代人の孤独について、誰にも分かってもらえないというもので、分かってもらえたという実感が私は独りきりではないのだという前向きな生きる姿勢を引き出すという話があった。この孤独こそが、作家や物語の中心主題になって久しい。それに光をあててきたのが宗教的古典といわれる書籍群に違いない。

聴き手が大阪局のチーフ・アナウンサーであるが、話のプロのはずなのだが、自らの体験からの問いかけもなく残念である。傾聴の話を聞いて関心しているだけではいけないだろう。なお、以下の番組はテレビ番組を再構成したもの。ラジオ深夜便は独自番組が多く、最初期にあったテレビの再構成番組はほとんどなくなった。


関西発ラジオ深夜便
2013年4月20日深夜 NHKラジオ第1

明日へのことば
「“聴く”という生き方」
京都ノートルダム女子大学特任教授 村田久行
きき手 品田公明アナウンサー


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