人生いろいろ:社会と世間

† このブログの主眼である藤木正三牧師の言葉に、社会は冷たくても世間が暖かければ生きてゆけるという断想がある。たれプーさん♪は社会的に物事を考える訓練をし社会福祉という分野で、生きやすい社会とは何かとずっと問うてきた。ただ結論として直観するのは、社会よりは世間という単位が優しければ何とか生きていけるということだ。

‡ 世間という概念は西欧人には理解しにくいものなのかもしれない。だからシステム的に関係性を論じつつ統合を目指しているが機能していない現状がある。人間が安心できるのは社会システムによる保障ではないと感じる。行政は何もやってくれないと嘆く人が多い。それを怠慢と切り捨てることもできる。警察や救急ではないが、社会を守るシステムとは必要最小限の人数で、起きうる通常の事態に対応するように設計されているに過ぎない。行政能力には限界があり全ての人たちの需要に応えることはできない。解決法は隣人を愛するという姿勢にあると思う。人類の物質的に貧しい時代は人間は助け合って生きてきた。いやそうしないと生きていけない状態だった。お金を発明し利子を発明し金融システムを発明し現実経済とかけ離れた生活は、人々をマヒさせると共に貪欲性を増してしまった。今度の選挙においても、じっくりと20年、50年、100年先まで考えて語る人はなく目先の利益を確保するということに過ぎない。隣人を具体的に愛することは、関心を持って関わっていくということだろう。愛とは、もっと生活に根差したもので、自分自身の必要を満たすごとくに他人の必要も考えるという心の余裕ではないのだろうか。豊かな社会とは、最低限の衣食住が保障されていること、自由に発言し行動できること、物質を共有する生活スタイルであろう。国政を変えるよりは、まず身近なところに働きかけ関わって協力して問題を解決していく姿勢が実効性のあることだ。


追記

選挙後に「こんなはずでは」と言わないために 五感のフル稼働を
<衆院選・特別コラム>特別寄稿・江川紹子
2012年12月5日 gooニュース

離党、移籍、結党、解党、合流……政党や所属議員めまぐるしい動きの末に、12の政党が総選挙に臨むことになった。衆議院の解散以降、できたと思ったら消滅した政党があり、慌ただしく作られた政党があり、主要政策や幹部の言うことに変 遷や食い違いがある政党もある、と言った具合で、主張や実像が分かりにくい。文字で書かれている公約を比べるだけでなく、討論会やインタビュー、街頭演説などを含め、私たちは自分の五感をフル稼働させて、それぞれの候補者や政党を見極めなければならない。

大事なのは、「今、何を言っているか」では なく、「選挙後に、何をどうやるか」だ。予知能力などまるでない、私のような凡庸な人間が、選挙の後の数年間を予測するのは無理だ。けれども、がんばらなければいけない。なぜなら、日本は今後ますます深刻な状況に陥っていくことが予想されるうえ、最近の選挙を振り返ると、「今」話題になっている課題や、 人々の「今」の気分が結果を決めてしまい、後になって「これでよかったのだろうか」と悔やむ言葉を聞くことが多いから。

2005年の「郵政選挙」は、小泉首相(当時)が最も力を入れていた郵政民営化を争点にするシングル・イシュー選挙になった。民営化に反対する者は「抵抗勢力」のレッテルが貼られ、選挙区に「刺客」が送り込まれた。小泉人気もあって報道はにぎやかだったが、「郵政」以外の論点をじっくり考える機会があまりなかった。小泉改革路線の「痛み」について、投票の時点で十分な議論がされただろうか。政治の課題は多岐にわたっている。メディアなどで話題になっている課題だけで判断することには、慎重でありたい。

原発や景気対策など、自分が大事だと思う課題1点で投票先を決めても、もちろんいい。ただその場合でも、それ以外の問題についても、その候補者や政党がどういう政策を持って、選挙後に何をどのように行うかは、確認しておきたい。後から、「こんなはずじゃなかった」と言わないために……。

最悪の事態避けるための選択も

2009年の「政権交代選挙」の時には、自民党政権に辟易した人々の空気が政権交代の熱を帯びて盛り 上がった。「政治主導で予算の組み替えをすれば、増税しなくても大丈夫」というマニフェストは大いに魅力的だったが、その結果がどうだったか、3年後の今、私たちは目の当たりにしている。「打ち出の小槌」や「魔法の杖」などはなかったのだ。今回の選挙でも、各政党とも明るい見通しや”いい話”をたっぷり語っている。それが「打ち出の小槌」や「魔法の杖」頼みではないか、よくよく見定めたい。

今の日本が抱えている困難な課題は、様々な 要因や問題が組み合わさった複雑なものだ。だから、解決が難しい。なのに、それを単純化したり一つの視点だけで評価したりして、「こうすればいい」とシンプルな解決法を提示してみせる物言いを見聞きすると、私は「ちょっと待って」と言いたくなる。

たとえば円高は日本の経済にダメージを与え、産業の空洞化を招いている、と言われている。確かに自動車や電機などの製造業にとっては大問題だ。ただ、今のように原発のほとんどを停止し、エネルギーの大半を化石燃料の輸入に頼っている中では、悪いことばかりではない。円安に動けば、輸出産業は一息つけるかもしれないが、燃料が高騰すれば電気料金 がさらに値上げとなるだろう。それは産業界にも家計にも負担になる。食料自給率が4割を切っている日本では、円安は食品の値上げにつながる。それに円高さえ解消すれば、産業の空洞化が防げるというわけでもない。この問題については、円高、円安、双方にメリット・デメリットがあることを念頭に置きつつ、対応策やその効果を評価していきたい。

経済の問題を語るにも、財政や社会保障の問題を考えるにも、今、もっとも重視して考えなければならないのが少子高齢化の問題だ。特に、生産しつつ旺盛に消費もする年齢層が急速に縮んでいる今の状況 は深刻だ。ただでさえ消費が減っているうえに、若い人たちの所得は低い。しかも、企業は生産性を高めて厳しい時代を生き抜こうとリストラを敢行。家計はま すます逼迫し、消費はさらに低迷していく。これでは内需は減る一方だ。一方、増加する高齢者は、病気や障害に備えて資産をため込むばかりで、あまり消費せず、内需の拡大には寄与しない。

今の悪循環を劇的に変え、景気をよくし、財政赤字を改善し、年金や医療の水準を維持しようとするための特効薬などない。女性の力を活用し、社会のニーズにあった新しい産業を育て、外国人観光客を呼 び込み、効率的な町作りを行い……。そんな様々な対策を考え、組み合わせていくしかない。若者たちが結婚して子どもを産み育てられるだけの収入が得られるようにする仕掛けも必要だ。貧困対策や子育て支援は、社会福祉の分野として語られることが多かったが、これからは大事な経済対策でもある。いずれも即効性はなく、時間も手間もかかることばかりだ。長期的な展望をもって、取り組まなければならない。そういう認識で、できるだけ具体的で効果的なメニューが豊富な のはどこの政党だろうか。おいしい話だけでなく、国民の負担についても正直に語っているのは、どの候補者だろうか……。

今回は、「脱原発」を訴える政党が多い。エ ネルギー政策も、問題は単純ではない。確かに、ひとたび事故が起きた時の被害は途方もなく大きい。原発のない社会を作りたいというのは、国民の多くの切実 な願いだ。その一方で、貧困によって命を脅かされている人々もいる。経済のことを考えれば、「脱原発」は現実的でない、という考えもある。「命か金か」と いった二者択一のシンプルな発想では、議論は具体的にならない。今後も原発を利用していくなら、東電福島第1原発の事故が示した原発のリスクをよくよく考え、「脱原発」を目指すのであれば、それがもたらすリスクとも向き合いたい。エネルギーを確保するのに、なんのリスクも伴わない方法はないのだ。

こうして経済やエネルギーのことを考えてみても、今の日本が抱える困難な課題は困難で、どの政党が政権をとっても、即効性のある対策は期待できない。難しいことではあるけれど、10年後、20年後を見据えながら、「今」、日本はどういう道を進むべきかを考えたい。

とはいえ、すべての論点にわたって、自分の考えに一致する政党や候補者は、なかなかいるものではない。自分の選挙区に最善(best)の候補者がいなければ、「まし(better)」な人を探すしかない。でも、そのbetterもいなければどうする? 棄権? それとも白票を投じる?

そういう時には、最悪の事態を避けるための選択、というのも必要だと思う。今、放っておけば起きるかもしれない最悪の事態を避けるためには、「よくない」と思える候補者の中から、「より害悪が小さい(less worse)」人を選択するというのも大事なことだと思う。

政治とは、最悪を回避したうえで、よりよい状態に近づけていくための営みなのだから。

その裁判官は「○」でいいか

ところで、この総選挙の日、私たちは政党や政治家を選ぶだけでなく、もう一つの選択をしなければならない

最高裁裁判官の国民審査だ。今回は10人の裁判官についての審査を行う。過半数が×をつけた裁判官は、罷免されることになっている。国民審査は、国民が司法に対して直接意思表示をできる、唯一の公的な制度と言っていい。

ところが、これがまことに分かりにくい。

小選挙区と比例区の投票を済ませ、国民審査の用紙を渡されて戸惑った経験のある人もいるのではないか。知らない人の名前がずらりと並んでいて、「これを判断しろと言われても困るな~」と思い、何も記さないまま投票箱に用紙を放り込んだ人は、さらに多いのではないか。

中には、用紙を渡された時に「分からないんですけど……」と言うと、「だったら、そのまま箱の中に入れておいてください」と指示された、というとんでもない話も聞いた。

国民審査はやめさせたい裁判官に×をつける方式なので、何も書かずに投票してしまえば、事実上は信任したのと同じことになってしまう。そのお陰か、戦後に始まったこの制度で罷免された裁判官は、ただの一人もいない。形骸化しきった制度になっている。

裁判官をどう評価したらいいか分からないのは、有権者である国民の責任ではない。責任はもっぱら、分かるように説明する責任を果たさない裁判官や裁判所にある。

仮に、○印をつけた者は信任し、それが過半数に達しなければ失職する、という制度だったら、裁判官達は自分の業績を分かってもらおうと、国民に分かりやすい言葉で説明をするに違いない。今は、有権者の多くが無知である方が審査される側にとって都合のいい制度の上にあぐらをかいているとしか思えない。

投票日の前に、選挙公報と同じように審査公報が届けられてはいる。そこには略歴や「裁判官としての心構え」などと合わせて、「最高裁判所において関与した主要な裁判」が列挙されている。けれども、 これを読んで理解できるのは法律の専門家ぐらいのものだろう。不親切このうえない。

このような形骸化した制度を改めさせるためには、今の制度の中で意思表示をするしかない。私は「分からなかったら、全員に×をつける」ことを提唱したい。それぞれの裁判官がきちんと分かりやすく説明をしないために、「よく分からない」状態で審査に臨まされていることについての異議申し立てとして私たちができるのは、それしかないからだ。

しかも、今の裁判所は国民の人権を守る砦としての役割を果たしているのか、疑問に思うことがしばしばある。冤罪事件では、警察や検察の捜査のあり方が問題にされる。特に、被疑者が虚偽の自白をせざるをえなくなるような取り調べについては、最近、批判を浴びることが多い。取り調べの経過を録音や録画で記録する「可視化」の必要性が叫ばれ、現在、法制 審議会で制度化にむけての議論が行われている。

ただ、警察や検察が自白調書の作成にこだわる理由の一つは、裁判所の姿勢にある。ひとたび自白調書ができれば、弁護側が任意性や信用性を争っても、多くの場合、裁判所は証拠として採用し、有罪判決の根拠にする。捜査経済上、自白は効率がいいから、無理にでも自白をとろうとする。

裁判では、自白の任意性や信用性は検察が立証する義務を負う。弁護側が取り調べのあり方に異議を唱えた場合、検察側が客観的な証拠を出して立証をしない限り、「疑わしきは被告人の利益に」の原則に従って、任意性や信用性を認めない、という原則的な判断を最高裁がしていれば、警察や検察はもっと早くに録音・録画に踏みきり、今頃法制化の論議をするまでもなく、「可視化」は進んでいただろう。それをやってこなかった裁判所が、冤罪の構図を作り、放置してきたようなものだ。

今年、再審無罪となった東電OL殺害事件では、一審が「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則に忠実に無罪判決を出したのに、東京高裁がそれをひっくり返して有罪とし、最高裁がそれを追認した。このような明らかな誤判があっても、誰も何の責任もとらないどころか、なぜ間違ったかという検証さえ行わない。誤判で無実の人を刑務所に送り込んだ3人の裁判官のうち2人は今も現役で、出世街道を進み、今は東京高裁と東京地裁の裁判長だ。

このような状況に対する批判も込めて、私は全ての裁判官に×をつけようと思う。10人に×をつけるので、勝手にこれを「×10(バッテン)プロジェクト」と名付けてみた。

一票の格差をなくすように求めている、一人一票実現国民会議も、全裁判官に×をつけることを推奨している。最高裁は、前回の選挙が「違憲状態」とは認めたものの、一票の格差をなくし、どこの地域でも同じ重さの一人一票を実現すべき、という姿勢は誰にも見られないため。

もちろん、業績なり人柄なりを知っている裁判官がいて、「この人は信任したい」と思えば、その人は×をつけるのを避ければいい。また、×をつけることにはどうしても抵抗がある、という人は、衆院選挙の投票だけを行って国民審査を棄権する方法もある。

いずれにしても、もう漫然と「よく分からない」から無記入の信任票を投じるのではなく、司法に対する意思表示をする国民審査にしたいと思う。

あなたも「×10プロジェクト」に参加しませんか?

<筆者紹介>
 江川紹子  1958年生まれ。東京都杉並区出身。ジャーナリスト。神奈川新聞社を経てフリーに。オウム真理教問題、冤罪事件や災害、教育問題などについて取材活動を重ねる。コメンテーターとしてのテレビ番組出演や雑誌記事執筆、著作も多数。



脱原発よりTPPより大事なこと 無視されてんだからさ
 <衆院選・特別コラム>特別寄稿・竹田圭吾
2012年12月12日 gooニュース

 政治の主役とは誰なのか。政党か。政治家か。官僚か。「いやいや、国民に決まってるでしょ」と言う人もいるだろう。それならなぜ、政治に問題があるのは国会議員や役人のせいだと文句を述べる人が多いのか。主役じゃないのに。

 一部の政党やマスコミは物事をまともに考える行為を放棄させている、という批判なら理解できる。脱原発とかTPP(環太平洋連携協定)とか消費税こそがこの選挙の争点だと彼らは言わんばかりだが、本来そんなものが争点になるはずもないことはサルでも5秒考えればわかる。

 選挙で問われるべきはエネルギーの調達と電力需給全体の政策であって、原発をどうするかではない。権益の草刈り場と化すアジアで米中やASEAN諸国とどのような経済関係を築いていくつもりなのかであって、TPPではない。社会保障の全体像や財政のビジョンであって、消費増税ではない。木の話だけして森の話をしない。

 そのほうが政党や立候補者にとって都合がいい、という仮説は成り立つ。森の話をすれば、森林全体や個々の樹木を守るために木や枝を間引く必要性にも触れざるを得ない。脱原発やTPPはともかく、消費増税は三党合意ですでに立法化されている。増税は高齢者向けの年金、医療、介護の給付の不足を補うためと説明された。それなのに、足りないのならなぜ削らないのかという議論が選挙になっても盛り上がらない。

 週刊誌AERAの記事(2012年12月3日号)によれば、日本人の平均年齢は約45歳、有権者では約53歳だが、2010年の参議院選挙における投票者の平均年齢は約57歳だった。日本の国会議員の平均年齢は外国と比較して飛び抜けて高いわけではないが、票を入れてくれるのが高齢者であればそちらを向かざるを得ない。

 内閣府などの試算によると、社会保障の負担と給付の「損得」について、1943年以前生まれの世代は生涯で4875万円のプラスである一方、1982年以降生まれの世代は生涯で4585万円のマイナスになるという。有権者の約30%はまさにその20代と30代であり、40代も含めれば50%近くを占めるのに、現実の日本は「高齢者の、高齢者による、高齢者のための政治」になっている。

 国民のために仕事をしますと政党や政治家は言うが、その国民とは誰なのか。これだけ多くの政党が新たに生まれたのに、何よりもまず20代、30代、40代のために国会で働きますと誓う政党は一つもない。ネットを利用した選挙活動の解禁を求める声は数年前から高まっているが、既成政党が公職選挙法の改正に前向きに取り組んだ形跡はない。建前はともかく、票として数や形に表れない有権者層はスルーされている。

 ただ、世代間格差に目を向ければよいとう単純な話でもない。高齢者とひとくくりにしがちだが、その世代内の格差もまた残酷なまでに広がっている。シニア向けの豪華旅行が人気を博する一方で、高齢者の自殺や孤立死が繰り返しニュースになる。しかるにここでも、富裕層に有利な利子所得の分離課税や資産課税を是正・強化する話は選挙で盛り上がらない。生活保護も不正受給の話題はやたら盛り上がるのに、本当に必要な高齢者に行き渡っているかどうかの議論はそれほど熱を帯びない。

 高齢者向けの給付を抑制すればすべてが解決するわけでもない。年老いた親が年金で暮らしていけなくなれば、30代、40代の子供がサポートするしかない。病に伏せればなおさら放っておくわけにもいかない。単に高齢者をスケープゴートにするのではなく、世代間格差と世代内格差をどうとらえ、どのように対処していくのか。公約集やマニフェストでそれらについて他党より一文字でも多く、一言でも細かく説明している政党や、演説で少しでもそれについて語ろうとする候補者はいるだろうか。

 必要なのは、20代、30代、40代の利益代表になるような一つの巨大な政党ではない。給付の抑制をどこまで求めるか、保険料負担の軽減と増税が景気に与える影響のどちらを重視するか、医療・介護と子育て支援策のバランスをどう考えるか、などは世代が同じでも異なる。20代、30代、40代の有権者の異なる価値観や優先順位に応じた、選択肢が投票先として用意されることが理想だろう。

 その点、政党の数が増えることは流れの起点として悪いことではない。ソーシャルメディアなどを通じた政策の提示、政治家と有権者のコミュニケーションが今よりもさらに日常化し、いずれ公選法が改正されて選挙公示後もスマホやタブレットで候補者にコンタクトできるようになれば、地縁や利権のつながりとは別のリンクが生まれる。今までスルーされてきた層が数や形として政党の前に姿を現す環境は少なくとも整う。

 しかも今回は、年明けからの通常国会をはさんでわずか7カ月後に参議院選挙がある。選挙は「点」だが、実際の政治は「線」であり「面」だ。衆院選の結果がどうであれ、ねじれ状態が続く国会の主導権がどうシフトするかは来年7月の参院選にかかっている。今回の衆院選と次の参院選を一つのセットとしてとらえて、二つの国政選挙を通じて政党や政治家にメッセージを伝える機会と考えてもいい。

 もう少し時間軸を引き伸ばしてみれば、もとより今はまだ日本の政治が変わっていく過程のただ中にある。政権交代の代償は予想したより大きかったかもしれないが、そこで得たさまざまな教訓を次のステップに活かさない理由はない。政治主導の本質と官僚の職能。財源論なき改革がいかに意味をなさないか。何よりも国会の復権が必要なこと。ここで諦めてしまうのはもったいない。今回の衆院選は最初の一歩にすぎない。

 だからこそ、この大事な選挙で投票に行くべきなのか。そんなことは私の知ったことではない。政治の主役は一人ひとりの「自分」であってほかの誰でもないのだから。

<筆者紹介>
 竹田圭吾(たけだ・けいご)。1964年生まれ。東京都中央区出身。ジャーナリスト。元『ニューズウィーク日本版』編集長。多数の情報テレビ番組に出演。



選挙は終わった 安倍氏やマスコミに願うこと、自分が心がけること
<衆院選・特別コラム>特別寄稿・江川紹子
2012年12月18日 gooニュース

 選挙戦は終わり、結果が出た。

 「やった!」と喜んでいる人もいれば、「あ~ぁ」とため息をついている人もいるだろう。冷めた、あるいは諦めに満ちたまなざしを送っている人も少なくないはずだ。

 泣いても笑っても、これから何年かの日本の政治は、自民党が率いていく。まもなく総理大臣に就任する安倍晋三氏にまず望みたいのは、できるだけ短命政権に終わらないようにしてもらいたい、ということだ。

 5年5か月に及んだ小泉政権が終わってから6年もの間、日本では毎年のように首相の交代劇が繰り返されてきた。安倍氏自身、前回は丸1年で政権を投げ出す苦い経験をした。トップが次々に変わることが、国際社会での日本の存在感の低下の一因にもなっているとの指摘もある。このような状況には、いい加減、終止符を打たなければならない。

 そのために、安倍氏にはいくつか心がけていただきたことがある。

(1)健康に気をつける

 安倍氏自身は、新薬のお陰で治ったと強調し、選挙向けのパフォーマンスもあって、カツカレーなどを食べて見せたりもしていた。しかし、潰瘍性大腸炎は完治が難しい病気だとも言われている。大災害への対応や難しい外交交渉など並大抵ではないストレスがかかる総理の責務を果たすためには、どうか謙虚になって、体調管理には万全を期して欲しい。

(2)異なる意見に耳を傾け、合意形成の努力をする

 今回の選挙で、自民党は小選挙区(定数300)の79%にあたる237議席を獲得したが、得票率は有効得票総数の43%ほど。比例選(定数180)の得票率は27.62%で、大敗した前回(2009年)の26.73%とほぼ同じ。自民党や安倍氏が広く支持されたというより、民主党が自滅した結果の大勝利であることは、安倍氏自身もよく認識していると思う。

 前回は、「お友達内閣」などとも称された側近政治が、失敗の原因の一つとなった。今回はその轍は踏まないでもらいたい。そして、党内はもとより、野党の意見にもできるだけ耳を傾け、数を頼みにせず、できるだけ広い合意を目指して欲しい。

(3)必要なものからやっていく現実的で実務型の運営を

 安倍氏には、理想とする国家像があり、憲法改正も強く主張してきた。しかし、国民の多くが取り組んでもらいたいと思っているののは、そうした「理念」よりも、現実の生活であり経済であり、持続可能な社会保障の制度作りなどだろう。周辺の諸国、とりわけ中国との関係も、できるだけ穏やかな状況にしなければ、経済への影響が大きい。「理念」を押し通すのではなく、実務型の内閣であってもらいたい。

 自民党は、選挙で「日本を取り戻す」というスローガンを掲げた。その言葉からは、かつてのような強い経済大国としての日本を復活させようという意気込みを感じさせる。しかし、超高齢化が進行中で、生産しながら消費も活発に行う年齢層がどんどん減っていく今、そんなことは無理だ。高度経済成長期やバブル経済の頃の思い出とは、きっぱり決別しよう。

 今の日本で政治に求められているのは、「保守」であり「維持」だと思う。「保守」といっても、イデオロギーにおけるそれではなく、高速道路や下水などのインフラの「保守」であり、老いたり病気になったり失業しても何とかなるという社会システムの「保守」。人も設備も高齢化していく中、これまでの日本が築いてきた、そこそこ豊かで快適な暮らしを維持するのは、相当の努力と工夫が要る。しかも、新しい道路や橋を完成・開通させるのと違って、「保守」や「維持」は実績として目に見えにくい。あまり大風呂敷を広げず、威勢のいいことを叫ばず、地道に黙々と地を這うような政治をやって欲しい。

 そのためにも、国民も、そしてマスメディアも、すぐに華々しいな結果が出ないからと、短気を起こして”引きずり降ろしモード”にならないよう気をつけたい。前回の政権交代の時、民主党は理念が先行しすぎ、準備不足もあって、約束が果たせず結果が出せないことが多かった。たとえば、最初の鳩山政権のつまづきは、普天間基地の移籍について「最低でも県外」の約束が守れなかったことだった。多くの批判が集まり、鳩山氏自身の金銭問題もあって、1年も持たずに退陣に追い込まれた。失敗から教訓を学び、問題を改善し、成長することを、国民やメディアは許さなかった。

 大臣にしても、つまらない自虐ギャグのような「失言」までが国会で追及され、大事のように扱われ、辞任に追い込まれることもあった。田中直紀防衛相や田中慶秋法相のように、資質が疑問視される場合はやむを得ない(そもそもそういう人事がなされないようにしてもらいたい)が、ちょっとした言動をあげつらって引きずり降ろすというのを繰り返していては、人が育たない。

 かといって、ただ黙って政府のやることを見守る、というのも違う。よく選挙の時には、「○○に今後の日本を託す」という言い方をするが、私はこういう物言いは間違っていると思っている。

 「託する」とは「物事の処置・運用を人に頼んでまかせる」(大辞林)ことだ。日本のこれからを、私たちの生活を、誰かに「頼んでまかせ」っぱなしにはできない。政府に対する注文、提案、意見、要求、批判等々は、これまで以上に出していきたい。そうしたことを、国民が考える材料になるのは情報。メディアは、これまでのように政局中心の報道ではなく、今、どのような法案が論議されているのか、どういう政策が必要なのかを丁寧に報じなければならない。私も、ジャーナリズムに関わる者の一人として、肝に銘じたい。

 選挙が終わった今、私は先月行われた米大統領選挙で勝利宣言をした際のオバマ大統領のスピーチの一節を、思い起こしている。オバマ氏は、国民に向かってこう呼び掛けた。

「皆さんの仕事がこれで終わりだというわけではありません。この国の民主主義における市民の役割は、投票でおしまいではないからです。」

 そもそも、社会をよくする、という仕事は政治家だけのものではない。政治家だけでできるものでもない。

 確かに、政府は大きな枠組みや方向性を決める大きな権限を持ってはいる。けれども、社会で生じている問題のすべてをすくい上げて手当することは難しい。

 自分の身の回り半径5メートルにある課題について、気がついた人が声を挙げ、何か行動していこうーーそんな発想で、病気の子どもを預かる病児保育の事業を始めた駒崎弘樹さんは、著書『「社会を変える」を仕事にする』(ちくま文庫)の中でこう書いている。

〈僕たちはそれぞれの職場で真面目に働くことだけをいいこととして、社会をよくしていこうということについては、国や自治体や「誰か偉い人」の仕事だと思っている。

 幸運なのか不幸なのか、日本はこれからアメリカのように「小さな政府」になり、国や行政は、国民の何もかもをケアすることを放棄せざるをえなくなる。(中略)だとしたら、民間において、NPOやソーシャルベンチャーが、国や行政が見放した、あるいは手が出せないような領域をカバーしていかなくては、問題は放置され続けてしまう。(中略)政治家や官僚だけが世の中を変えるのではないのだ。「気づいた個人」が事業を立ち上げ、社会問題を解決できる時代になっているのだ〉

 気づいた人が動き出せば、政治家に働いてもらわなければならない場面が出てくるだろう。それが政治家を育てることになるだろうし、誰がまともに対応するかを見て次の投票行動につなげる、ということもあるだろうのではないか。

 とにかく、選挙は終わった。

 残念ながら投票率は低かったけれど、それを嘆いていても仕方がない。

 私も、あまり大風呂敷を広げず、虚勢を張らず、自分の身の回り半径5メートルが、少しでもよくなるように、自分に何かできることを考えたい。できれば、来年の7月の参院選までに、その「何か」をみつけられれば、と思っている。

 ところで、最後に最高裁裁判官の国民審査についてのご報告。私の問題提起に対して、多くの方が呼応して、投票用紙に×をつけるという行動を起こした。一票の格差の是正を求める弁護士グループが新聞広告などで精力的に呼び掛けたこともあって、今回は前回より投票率が大幅に下がったにも関わらず、つけられた×の数はむしろ増えた。

 ×が増えたことを喜ぶわけではない。また、全裁判官に×をつけることが正解と考えているわけでもない。国民審査の制度の問題点を一人ひとりが考え、それに対する異議申し立てなどの意思表示をしようと実行に移したことが尊いのだ。

 私自身も、ツイッターなどで寄せられた意見で、今までは知らなかった問題に気づかされることもあった。今回の人々の意思表示が、制度の改善につながるよう、政治家たちにもしっかりと働いてもらいたい。いや、働かせたい。


関連記事
スポンサーサイト

コメント


トラックバック

↑