キリスト教徒だけど坐禅!? 仏「Zen」事情

キリスト教徒だけど坐禅!? 仏「Zen」事情
2012年10月15日 Excite Bit コネタ

フランスの街中で、しばしば「Zen」という言葉を見かける。これは「禅」という言葉がフランス語として使われたものだ。欧州において禅は、東洋の神秘的なイメージも加わって肯定的な意味でとられることが多い。一体フランスでどれくらい市民権を得ているのだろうか。パリにある曹洞宗ヨーロッパ国際布教総監部でお話をうかがった。

「欧州全体で約4600人のメンバーがいます。そのうち、もっとも多いのがフランスで約2200人。イタリア、ドイツ、スペインがほぼ同数でそれに次ぎます。『メンバー』というのは禅に興味があり坐禅などに参加している人々のことです。日本の檀信徒の制度とは状況が異なる場合も多いので、こう呼んでいます」

日本だと寺院が坐禅の会などを主催しているが、海外ではそのような場所も多くないだろう。どのように彼らは参禅しているのだろうか。

「たとえば主催者が家の一室を提供して、サークルのような形で坐禅を修行しています。また建物のワンフロアを借りて、仏像なども安置している大規模な所もあります。このような道場ではフロアを坐禅堂と本堂を兼ねたような場所にして、坐禅を終えた後に読経をするケースもあります。その他にも、応量器と呼ばれる食器で作法にのっとって食事をしたり、夏には2泊3日から1週間、摂心と呼ばれる泊まり込みの修行もおこなわれています。またフランス中部、ブロア市近郊には『禅道尼苑』と呼ばれるフランスでもっとも大きな道場があり、そこでは1年に数度、欧州全土から多くのメンバーが集まります」

このような道場の数は、同総監部が直接関係を持っているものだけで欧州全体で約300。フランスには約200あるそうだ。ただし禅への取り組み方も個人差があり、道場に関する明確な規定は設けていないため、正確な数はカウントできないという。またフランス仏教界全体で見ると、歴史的な経緯や亡命僧の多さなどから曹洞宗よりチベット密教やベトナム禅の方が、規模ははるかに大きいそうだ。

このような統計から欧州でもフランスのメンバー数が群を抜いているが、これには理由があるという。

「1967年に弟子丸泰仙という曹洞宗の僧侶が、欧州へ禅を伝える目的でパリ市内に道場を構えました。当時はベトナム戦争が起きたりヒッピー文化が流行するなど、土台だと思っていたものが無くなり何かを探している時代。そこにインドのヒンドゥー教などとともに、禅がパズルの1ピースのように上手くはまったのだと思います。また坐禅というのは、何よりもまず坐らなければなりません。日本語が理解できなくても、体さえあれば誰でも経験できる。この『まず坐る』という身体的な取り組みやすさも、海外で受け入れられた点だと思います」

興味深いことに参禅に通うヨーロッパ人の中には、キリスト教徒だが坐禅の道場へ通う人もいるそうだ。

「個人差はありますが、ヨーロッパでは禅が宗教というよりは哲学であったり、生きるための知恵という形で捉えられている面もあります。たとえばフランスではライシテ(政教分離)が徹底されていたり、国民の大半がアテ(無神論者)と答えるなど、宗教を割り切って考える風潮があります。信仰に基づき坐禅をするのではなく、身体的な行として坐禅を取り入れている人も多く、そこが欧州の他国より坐禅に参加する人が多い由縁かもしれません。ゆえに坐禅はしたいが仏像に礼拝はできないと、坐禅堂に入るときの合掌礼拝を拒む人もいます。一方でキリスト教をベースとした信仰心が厚いイタリアやドイツでは、坐禅と信仰を同じものとみなす人が多いです」

ところ変われば捉え方も変わる禅事情。その多様性こそが「禅」が国際化した証拠といえる。(加藤亨延)



・欧州の座禅事情だが記事を読んで興味深かった。よく米国の座禅の話題はあるのだが、国民性が感じられて面白い。

フランスが盛んな理由は、弟子丸泰仙 師の布教の影響が大きいということ。フランス人に分かるように指導したということだろう。記事にもあるように、宗教行為と捉えるよりも身体トレーニングとして受け取られている可能性も高いのだろう。

東西宗教交流ということで、カトリック神父が座禅することは以前から行われてきており、教義を学ぶことには抵抗があるだろうが、姿勢を正して呼吸を整えることはどの宗教にも修行の一部にあるから問題もないと思われる。

言葉を超えた気づきを与えることは、座禅のみでなく様々な修行から得られる効用である。ただ、難行苦行をすれば分かるというものでもなく、難行苦行を完遂したという人に功徳があるのではない。

この点を勘違いする人が多いと感じる。誰それの指導で何年間修業したとか・・・、そんなどうでもいいことで権威付ける人が後を絶たない。それは、俺は東大法卒だ!って生涯言いわめくことになるのと同じだだ。師匠を超えることはなかなかできないし、師匠が教えたいのは自分に従順せよではなくて、己の道を見出せということに他ならないのだ。

修行とは毎日の生活のことであり、今やっていることに専心しなりきることのみ。座禅しなくても何ら問題はないし禅堂に行く必要すらない。その辺りを、きちんと分かっている数少ない指導者に出会うことを希求して欲しいものだ。


曹洞宗ヨーロッパ国際布教総監部  http://sotozen.eu/

参考
SOTO禅インターナショナル(SZI)  http://www.soto-zen.net/
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