FNSドキュメンタリー大賞 生まれ来る子ども達のために

FNSドキュメンタリー大賞 生まれ来る子ども達のために
2012年8月19日深夜 東海テレビ

原発事故後、多くの住民が避難した福島県南相馬市で診察を続ける産婦人科医の高橋亨平医師。がんに侵され余命宣告を受けながら未来のために放射能と闘う日々を追った。

震災と原発事故で多くの住民が避難を余儀なくされた福島県南相馬市。原発から直線距離で23キロの場所にある原町中央産婦人科医院の高橋亨平医師(73)は震災後、妊婦はもちろん風邪をひいたり足腰の痛みを訴える患者まで毎日100人以上を診察している。目に見えない放射能の恐怖に多くの妊婦が南相馬市を離れて行く中、高橋医師は「子どもが生まれない町に未来はない」と妊婦の被ばく管理や地域の除染活動を先頭に立って進めている。高橋医師ががんを告知されたのは震災から2カ月が経ったころだ。直腸で見つかったがんはすでに複数の場所に転移していて余命半年を宣告された。がんに侵されながら放射能と闘う高橋医師の震災から1年を追ったドキュメンタリー。

ナレーション:神尾 佑(福島県出身俳優)
プロデューサー・構成:菊地昭洋
ディレクター:坂井有生
制作:福島テレビ
初放送:2012年5月30日深夜

坂井有生ディレクター コメント
「インフラが復旧して住民の帰還できる環境が整うことが本当の復興なのか。原発事故後の取材で日々考えさせられました。南相馬市は放射能の影響で、住めない地域や、立ち入りすら許されない地域など4つに分断されました。避難できず取り残された住民も多くいる中で、唯一、診察を続けた産婦人科医と出会い感銘を受けました。詳細な放射線量が不明な時期から住民のために孤軍奮闘を続けていたのです。その医師は高橋亨平医師。これまでに自治体人口の5分の一に当たる1万5千人を取り上げたベテラン医師です。末期のがんに侵されているにも関わらず、彼は医療のみならず子供や妊産婦のために除染にも立ち上がりました。その理由を問うと“子供が誕生しない場所には未来は無い”と言います。国会や政治家が一言でまとめてしまう“復旧・復興”。本当の復興とは何なのか、高橋医師の活動を通じ、そのことを考える一つのきっかけになれば幸いです」


・福島原発から直線距離で23キロにある高橋医師の病院。このドキュメンタリーは震災から1年を迎えた高橋医師を中心とする人間模様である。この土地は医師不足がもともと顕在化していた土地であった。放射線量を気にする妊婦たちは他所で出産することを選ぶ人もいる。

高橋医師は昭和13年台湾で生まれ、福島県立医大卒。42歳の時に病院を設立。震災後に南相馬除染研究所を作り効果的な除染について模索している。

番組前半は放射線測定をすること、除染作業の現状を確認し、鉛入りカーテンを設置した防線という試みも独自に行っている。後半は高橋医師のがん闘病の記録となっている。

番組では4月までの記録となっている。番組最後は、高橋医師の手で生まれた女性が里帰り出産をはたしたシーンで終わった。

以下の中日新聞記事は、後継者を求めるという思いが記事となっている。


原町中央産婦人科医院  http://www6.ocn.ne.jp/~syunran/

南相馬除染研究所  http://mdl.or.jp/


末期がん院長、後継求む 南相馬・原町区の医療託したい
2012年8月29日 中日新聞

「患者置いていけず」 震災後も診察 

 福島県南相馬市原町区の原町中央産婦人科医院の高橋亨平院長(73)が直腸がんを患いながら、診療活動を続けている。福島第1原発事故後も休診せず地域医療を支えた。がんは末期でいつまで診療を続けられるのか見通せず、診療を託す後継の医師を募っている。

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 医院は原発から25キロ圏内。事故で屋内待避区域や緊急時避難準備区域に一時指定され、地元の病院が次々と休診する中、高橋さんは診療を続けた。約3日間避難したが、「患者を置いて逃げられない。人生最大の使命」と医院に戻り、専門の産婦人科のほか、内科、外科の患者も診た。

 がんの発覚は昨年5月。肝臓や肺に転移し、手術できなかった。ことし7月からは放射線治療のため週5日、診察の合間を縫って福島県立医科大(福島市)に通う。

 原発事故後、南相馬市内で唯一、お産に対応できる医療機関として、80人以上の赤ちゃんの誕生に立ち会った。ことし4月からは市内の別の医療機関でも出産できるようになり、産婦人科の地域医療を1人で支えた負担から一定程度解放された。

 高橋さんは「原発事故があっても赤ちゃんは生まれた。とどまって診療を続けて良かった」と振り返る。病気でいずれ診療からは身を引かざるを得ず、一時は閉院を考えたが、患者やスタッフのことを思い、経営の継続を決意。後継医師を募って将来を託すことを決めた。

 現在、来院者の8割は内科などの患者で、募集医師の専門は問わない。「産婦人科としては成り立たず、診療科を変更しなければならないかもしれないが、地域の患者のために病院を続けたい。人間味のある医師に来てもらいたい」と話す。

 連絡先は同医院=電0244(24)3355=へ




20120715 生まれ来る子ども達のために 福島放送 投稿者

追記

南相馬医療に尽力がん闘病74歳 医師・高橋亨平さん死去
2013年1月24日 東京新聞 朝刊

 東京電力福島第一原発事故で被災した福島県南相馬市の産婦人科医で、自らがん闘病を公表した高橋亨平(たかはし・きょうへい)氏が二十二日、死去した。七十四歳。死因は明らかになっていない。

 第一原発の北約二十五キロにある原町中央産婦人科医院の院長。南相馬市は原発事故で広い範囲が避難区域に指定され、医療関係者も多くが避難した中、病院でただ一人の常勤医として勤務。「きょうへい先生」と慕われた。

 二〇一一年の原発事故発生後にがんが見つかり、一二年八月、病院のホームページに「私の体の現状と医師募集のお願い」と題し「いつまで生きられるか分からない。もし、後継者がいてくれればと願ってやみません。私の最後のお願い、どうかよろしくお願いいたします」とメッセージを寄せていた。

◆「子と妊婦大事にしないと未来ない」
 昨夏、原町中央産婦人科医院での取材を終えて乗り込んだタクシーで、地元の男性運転手は真っ先に「亨平先生はお元気でした?」と心配した。

 内科もあるので、家族が昔からお世話になってきたという。震災後、男性の一家は避難しそびれたが、情報も物資もなくほぼ孤立した地域には「亨平先生」がいた。男性は「本当にありがたかった。あんな先生はどこにもいない」と繰り返した。

 優しい笑顔で子どもや患者に慕われたが、命を軽んじる「お役所仕事」とは真っ向から戦った。震災当時、県や国の指示が混乱したときも、南相馬市医師会会長として「机上のルールを押しつけるな」と県に激しく抗議した。「患者の命を守るのは医師」と宣言。入院期間が制限されていたが、患者を病院から移動させるかどうかは、現場の医師の判断を優先することを県に約束させた。

 大腸がんが見つかってからも医療現場にとどまり続けた。妊婦や幼児のいる家の除染も手弁当で始め、子どもを守るために奮闘する亨平先生のもとに、人は集まった。

 東大医科学研究所の研究員で、同市立総合病院で診療にあたる坪倉正治医師(31)は「南相馬の精神的支柱だった」と悼む。「最近も『やっぱり痛いんだ』と苦しんでいたけれど、会うたびに地域復興のアイデアを話してくれた。探求心あふれる人柄は変わらなかった」

 地域住民一人一人の内部被ばく量を減らす診療に取り組む坪倉医師は「患者に向き合うことが大切だと学んだ」と惜しんだ。勤務医時代から数えて一万五千人の新生児を取り上げた亨平先生は最晩年、怒りを込めて繰り返した。「子どもと妊婦を大事にしない国に未来はない」 (中山洋子)



高橋亨平さん死去:被災地の医療支え 復興の願い託す /福島
2013年01月23日 毎日新聞 地方版福島

 南相馬市の「原町中央産婦人科医院」の院長、高橋亨平(きょうへい)さんが22日、肝機能障害でなくなった。74歳だった。11年5月に大腸がんが発覚し、余命半年と告げられながら、福島第1原発事故で医師不足となった市内で、内科などの診療を続けた。被災地の地域医療を支えた。

 昨年6月には、抗がん剤治療の副作用のため体力が落ち、2階の病室に上れなくなった。「先生の方が容体が悪そう」。診察を受ける地元患者に心配されることもあった。だが、高橋さんは「地域医療を支えるのが私に与えられた使命」と語り、昨年12月に入院するまで新しい生命を取り上げてきた。医院を継いでくれる医師を募集、後継者を見つけていた。

 診察の傍ら、市民と「南相馬除染研究所」を結成し、ボランティアで保育園の除染などを行っていた。復興を進め、子どもたちが伸び伸びと外遊びできる南相馬市にしたいとの願いを託し、旅立った。【三村泰揮】



高橋亨平さん死去 避難準備区域で産婦人科医を継続
2013/01/24 福島民報

 東京電力福島第一原発事故の緊急時避難準備区域だった南相馬市原町区で、病と闘いながら地域医療に尽力した医療法人誠愛会理事長で原町中央産婦人科医院長の高橋亨平(たかはし・きょうへい)さんは22日午後6時33分、肝臓疾患のため南相馬市の病院で死去した。74歳だった。
 高橋さんは富岡町出身。台湾で生まれ、戦後本県に引き揚げた。磐城高、福島医大卒。昭和46年から原町市立病院(現南相馬市立総合病院)に勤務し、55年に原町中央産婦人科医院を開業した。

 平成23年3月の原発事故を受け、市内で多くの医療機関が閉鎖する中とどまり、あらゆる病状の患者を受け入れた。5月に直腸がんが見つかり、余命半年と宣告されたが、抗がん剤の副作用に苦しみながらも地域の将来を思って診察を続けた。8月には市民や亀田総合病院(千葉県)の医師らと南相馬除染研究所を設立し、乳幼児宅の放射線量の調査や保育園などの除染作業などに取り組んだ。また、市にホールボディーカウンターの導入を積極的に働き掛けた。

 昨年12月17日まで診察を続け、育児のアドバイスをしてきた。生涯で取りあげた新生児は約1万5000人に上った。前南相馬市医師会長、一般社団法人南相馬除染研究所理事長。24年度の産科医療功労者厚生労働大臣表彰を受けた。
   ◇  ◇
 自宅は南相馬市原町区橋本町2丁目48ノ2。通夜、葬儀は親族のみの密葬で行う。高橋家と医療法人誠愛会の合同葬を執り行う。通夜は2月9日午後6時から、告別式は同10日正午からともに南相馬市原町区のはらまち斎苑愛月記で。喪主は長男晋一郎(しんいちろう)さん。



避難準備区域で産婦人科医療守る 高橋亨平さん死去
2013年01月24日 河北新報社

 福島県南相馬市の原町中央産婦人科医院院長の高橋亨平さんが22日、市内の医療機関で亡くなった。74歳だった。がんを患いながら、福島第1原発事故で一時、緊急時避難準備区域に指定された同市で診療を続けていた。

 医院は原発から25キロ圏にあり、区域指定を受けたが、高橋さんは看護師らと共にとどまり、市内で唯一出産ができる医療機関として診療を続けた。

 事故から約2カ月後の2011年5月に直腸がんが見つかったが、診療を中断しなかった。12年8月に末期症状であることをブログで公表し、後継医師を募った。同年10月にはブログで後継者が複数見つかったことを報告し、闘病生活を続けていた。



高橋亨平さん死去:告別式 「遺志を受け継ぐ」 南相馬の復興、医療関係者ら誓う /福島
2013年02月11日 毎日新聞 地方版福島

 震災と福島第1原発事故で医師不足に陥った南相馬市で、末期がんを抱えながら診療を続け先月22日に74歳で亡くなった原町中央産婦人科医院長、高橋亨平さんの告別式が10日、同市内でしめやかに営まれた。参列した医療関係者や患者らは、母子を守り復興に向かう高橋さんの「遺志を受け継ぐ」と誓った。

 高橋さんは震災後、赤ちゃんを取り上げる一方、南相馬除染研究所を設立。乳児用にガラスバッジ式線量計を無償で配り、放射線量の高い家庭に鉛入りのカーテンを提供した。

 式で喪主の長男、晋一郎さん(40)は「患者がいる限り診療を続け、最後まで走り続けた」と振り返った。高橋さんと共に約40年勤務した看護師の山田米美さん(74)は「先生のご遺志を守り、やさしく、ゆっくり、を心がけ、患者さんに接していきます」。研究所理事の箱崎亮三さん(53)は「南相馬市が日本に、そして世界に誇れるまちになるようがんばります」と、高橋さんをしのんだ。

 市内の主婦、尾賀江美さん(40)は、長男一颯(いっさ)君(1)を抱いて参列した。県外の避難先から南相馬に戻り、高橋さんの検査を受けた。「先生がいたから、安心して戻れました」。埼玉県から参列した主婦の奧野由紀さん(31)は、出産に不安を感じたが「先生から励まされ、勇気がわきました。息子と楽しく暮らしています」と、涙を浮かべた。

 原町中央産婦人科医院には今春、後任の内科医が富山県から着任予定。市内の小野田病院長、菊地安徳さん(53)は「医師としてだけではなく、南相馬の復興に向け力を尽くされた高橋先生の思いを、みんなで引き継いでいきたい」と話した。【三村泰揮、高橋秀郎】


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