医師になった僧侶 「人生完成させる」手助けに

医師になった僧侶 「人生完成させる」手助けに 
2009年4月25日 朝日新聞

 医師は人の体を診る。僧侶は「いのち」を見つめる。その両方ができれば、病む人の苦悩を丸ごと受け止められるのではないか。ならば、と禅僧の対本宗訓(つしもと・そうくん)さん(54)は医師になった。みずからを「僧医」と呼ぶ。その目には何が見えてきたのだろう。

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 東京・浅草近くの小さな内科クリニック。つるつるに剃(そ)った頭に白衣姿の対本さんが、超音波診断装置を指さす。「この操作が意外と難しくて……」

 医師国家試験に合格、2年間の初期臨床研修をこのほど終えた。クリニックには4月から週3日のペースで勤め始めたばかりだ。「技術はなおトレーニング中ですが、臨床ではもう独り立ち。下町のホームドクターとして、どんな病気でも拝見しなければなりません」

 かつては臨済宗の一派の管長だった。広島県にある本山は600年の歴史を誇り、38歳での最高位就任は異例だった。

 一方、胸の内では「いのちとは何か」という問いが膨らんでいた。きっかけは、父親が長い闘病生活の末に亡くなったことだ。管長になる3年前である。

 「人にはこころだけでなく、肉体という側面があります。老・病・死をめぐる苦は体と切り離しては考えられませんが、僧侶には医学の知識がない。医療現場に飛び込み、人間という存在を考えねばと思ったのです」

管長しつつ勉強
 管長の重責をこなしつつ、医学部を受験しようと決めた。禅の道場は朝4時起床。睡眠を1、2時間に削り、勉強する日がたびたびあった。

 2000年の春、帝京大学医学部に合格した。平日は東京、土日は広島という生活だ。トップみずからの行動に「伝統に安住せず、現代にどんな役割を果たせるかを一人ひとりが問い直そう」とのメッセージをこめた。しかし共感は広がらず、その秋に辞任した。

 医学部に入り、人体を冷徹に見ることを迫られた。2年生での解剖実習では、「メスを入れるのは抵抗感がありました。申し訳ありません、という気持ちです」。献体された遺体を切ったときの感触はいまも残る。

 初めて看取(みと)りを任されたのは、卒業後の臨床研修に入って3カ月目。50代半ばの男性が最期を迎えようとしていた。見守る家族はおろおろするばかり。そのとき患者が、懸命に呼吸補助装置を調整する対本さんの手をつかみ、酸素マスクの下から息たえだえに、こう言った。

 「私はなぜ、こんな思いをしなければいけないんですか」

 医療を超えた問いである。「その瞬間、頭の中で何千冊もの仏教の本のページがパラパラッとめくられた気がします。気の利いたことばは何も出てきません。現場にあるのは個別の苦悩。対応するのがいかに難しいか、痛いほど実感しました」

 そんな「逃げようのない場」では、自分を空(くう)にしなければと気づいた。「ただし軸足は定まっていて、柔軟に相手に合わせる。それには、よほどの力をつけないと」

 医師が扱う「生命」と僧侶が説く「いのち」。そのつながりを考えるうえで、忘れられない場面がある。

 まだ医学生のときのことだ。脳腫瘍(しゅよう)の手術を受けたものの、回復の見込みのない患者を受け持った。話は通じない。ただ、目で語りかけているかのようだ。その姿をじっと見つめた。

 「そうしますとね、病気という薄皮1枚の奥で、何ら欠けたところのないものが生き生きと息づいているように感じたんです。それを『いのち』とも『たましい』とも呼んでいい。病むことも傷つくこともない……。すべてをそのままで、よし、としているような神々しさを感じ取りましたね」

両方からさぐる
 そうした経験を経て、いま、何かをとらえかけている気がしているという。「感触で言えば」と、左手を伸ばしながら語る。「体を診ることによって何かをつかもうとする」。今度は右手を出す。「僧侶として、こちらからさぐろうとする」

 見えない球のようなものを両手でつかむしぐさをする。「両方からまさぐって、何かにちょっと触れているのかな、という感じでしょうか。何とも名付けようのない、この奥のところを究めたいのです」

 医師としてはもちろん、肉体の苦しさを少しでも軽くしてあげたい。しかし、こうも考える。「病や老い、死は人生の大切な契機。それに向き合うことで何かに目覚め、成長していく。そうした経験をするために、人はあえて肉体をまとってこの世に生まれてくるのではないでしょうか」

 近く緩和ケアチームのある総合病院にも勤める。がん末期の人に接し、「人生を完成させるお手伝い」をしたい。僧医としての力がいよいよ試される。(磯村健太郎)



・医師⇒僧侶・牧師資格を得るというパターンはかなり多くある。一方で、僧侶・牧師⇒医師ということは聞かない。理由は、日本では医師になるためには相当の勉強量を青年期に行う必要があり、人生の問題は後回しになってしまうからだ。

本来であれば、社会人となってから医師をめざす欧米のメディカル・スクールのような養成がホンモノであろうと思う。しかし、日本では閉鎖的な医師社会では歓迎されずにきている。

医師の視点と宗教家の視点は、次元が違うのだと思う。それを混同することは危険かもしれない。私は個人的には、「僧」医・「クリスチャン」ドクターと看板を掲げる医師を好まない。それは患者が信仰を持っている医師ならば特別な配慮をするだろうと言うような変な期待を抱くからだ。そんなことがあるはずもない。

宗教を信じない人が多い現代で、生死の葛藤の瞬間をどのように信仰者として感じ接していくのか、その答えは学んだ宗教教理の中にはないだろう。
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