煩悩林17

   旅びと

よくよく見れば
この旅びとがあるくのは
きのう通った道でない

・同じように思える毎日の光景だが、同じことはない。
生きるとは、一回性の人生をどう扱うかという態度にすぎない。
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メディア向け「謝罪表明」への一考

メディア向け「謝罪表明」への一考
2010年3月21日 ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 バチカン放送(独語電子版)のベルンド・ハーゲンコルド編集担当者が示唆に富む見解を紹介している。聖職者の未成年者への性的虐待事件に関連して、同氏は2つの異なる謝罪があると指摘している。一つは相手の反応とは関係なく、謝罪を一方的に表明するやり方だ。もう一つは犠牲者に赦しを請うものだ。同氏は前者の謝罪を「ナンセンスだ」と批判している。ちなみに、独語で書くと、前者は「Ich entschuldige mich」 であり、後者は「Ich bitte um Entschuldigung」となる。
 少し説明すれば、前者は犠牲者がその謝罪を受理するかどうかは第一義ではなく、謝罪を表明するという事実が重要となる。同氏はそれを「Selbst-Entschuldigung」(自己謝罪)と表現している。前者は謝罪を表明することで自身の罪意識から少なくとも解放される。後者は犠牲者に向かって謝罪を申し出るわけだから、その謝罪が受け入れられるかどうかは謝罪表明する本人ではなく、あくまでも相手次第だ。受け入れられない場合、謝罪は当然、成立しない。
 ハーゲンコルド氏はまた、「謝罪表明がメディア向け儀式となっている」と警告を発する。メデイア機関の前で頭を下げて謝罪する会社責任者の姿をみていると、謝罪内容や犠牲者の反応とは関係なく、予め決められたプロセスの一環という印象を与える。最近では、不倫問題に直面したプロゴルファー、タイガー・ウッズ選手のように選択したジャーナリストの前で予め準備された謝罪文を読むことで謝罪プロセスを終える人も出てきた。ウッズ選手の場合、謝罪表明を終えた直後、スポーツ用品大手ナイキ社など契約企業が同選手の支持を表明したという。同選手の謝罪表明は犠牲者がそれを受け入れたかどうかより、メディア向けの通過儀式だったことが明らかだ。
 少々理屈っぽくなったが、ハーゲンコルド氏の指摘は重要な内容を含んでいる。現代社会は謝罪表明で溢れているが、多くの謝罪が自己謝罪の性質を帯びているのだ。
 ローマ・カトリック教会の聖職者の性犯罪問題も一方的に謝罪を繰り返すのではなく、あくまでも犠牲者に向かって「赦しを請う」ものでなければならない。ローマ法王べネディクト16世の謝罪も「自己謝罪」ではなく、「赦しを請う」ものであってほしい。
 厳密にいうならば、聖職者の性犯罪の犠牲者が謝罪表明を受け入れなかった場合、「謝罪」という行為は永遠に成立しないことになる。「謝罪」とは本来、それほど厳しい行為だったはずだ。



・現代社会は謝罪表明で溢れているが、多くの謝罪が「自己謝罪」の性質を帯びているのだという指摘。確かにそうで、謝罪会見がテレビで報道されると責任者が並んで頭を下げるという光景が日本的な風景になってしまった。本当に謝罪していると感じたことがないのは、自己謝罪だったんだと納得。謝罪を受け入れる被害者との関係が大切であり、一方的な宣言では意味はないだろう。

心の泉36

「生き生きと、自由に、生きてゆきたいのなら、同伴者もなく、ひとりで歩むことをも恐れずに、あえて進んでゆかなければならない」(アントニー・デ・メロ)1-405

To be alive and free you must shed your fear of walking unaccompanied.

・ひとり歩む道。そこには誰も付き添ってくれるわけではいない。孤独を感じる。しかし、そのうちにひとりでいることが幸いであることを見出す。まず自分自身となる。自分が捉われていた足かせに気づくだろう。その先にはまったく新しい人生が開ける。

聖職者の性犯罪に関する法王書簡

聖職者の性犯罪に関する法王書簡
2010年3月20日 ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 「聖職者による未成年者への性犯罪が次々と発覚し、欧州のカトリック教会の信頼性が大きく揺れ動いている」と何度かこの欄で紹介してきた。今回は同問題に対する教会側の対応を伝えたい。
 先ず、ローマ・カトリック教会最高指導者、ローマ法王べネディクト16世は20日、アイルランド教会宛ての司牧的書簡を公表する予定だ。書簡のテーマは同国の聖職者の未成年者への性的暴力問題だ。同国では1970年、80年代に数百件の聖職者の性犯罪が発覚し、同国教会だけではなく、欧州全土のキリスト教会に大きな衝撃を投じた。べネディクト16世は17日、「心を広げ、書簡を読んで欲しい。そして懺悔、癒し、再生プロセスの助けとなることを願う」と述べている。
 聖職者の性犯罪問題で沈黙を続けてきたため批判に晒されてきた法王としては、書簡を通じてその立場を明らかにするわけだ。書簡の公表で批判が鎮まるかどうかは分らない。
 バチカン関係者によると、法王は書簡の中で聖職者の性犯罪に対し厳しい姿勢で臨むことを表明。具体的には、教区司教の修道院への管理権限を強化する考えを明らかにしている。修道僧の性犯罪を防止するため教区責任者が監視の目を強めるわけだ。ただし「修道院の自主性は堅持」と但し書きにあるという。
 アイルランド教会司教会議は2月中旬、ローマで法王と協議したが、聖職者の性犯罪を隠蔽してきた疑いで同国教会司教会議議長ショーン・ブラディ枢機卿の辞任要求が高まってきている。同枢機卿は17日の水曜礼拝の中で、聖職者の性犯罪の犠牲となった人々に対し、謝罪を表明する一方、「アイルランド教会は新しい出発が必要だ」と述べ、自身の辞任の可能性を示唆している。
 100件を越える性犯罪が判明したドイツでは司教会議で決定した性犯罪への対応策「4項目計画」に基づき、聖職者の性犯罪に関するインフォメーションのホットラインが今月30日からスタートする。教会関係者のほか、心療医療関係者など性犯罪問題の専門家が対応し、犠牲者だけではなく、性的暴力を犯した聖職者に対しても相談に乗ることになっている。その一方、独司教会議は犠牲者への賠償金支払い問題に応じる意向を示してきた。
 隣国・オーストリア教会では17日現在、100件を越える被害報告が明らかなっている。ドイツ教会の犠牲者数を凌ぐ規模に発展してきた。同国ではバンディオン・オルトナー法相らの提案で未成年者への性犯罪防止をテーマに宗教家、政治家、法学者など専門家たちによる円卓会議が来月13日に開催される予定だ。
 法王書簡の公表、高位聖職者の辞任、ホットラインの開設、円卓会議の開催ーー欧州のカトリック教会は知恵を絞って対策に乗り出してきている。それらの対策が成果をもたらすかどうか、もうしばらく注視していきたい。



・本当に、この話題ばかりに終始しているが、進行中の出来事なので対応を探ることで、新たな再生が本当に果たされるのかを見ていきたい。

NNNドキュメント’10 ~闘う! 本屋のオヤジ~

「闘う! 本屋のオヤジ」 シリーズ・仕事のカタチ(2)

いま全国で年間400軒近い大型書店が開店している。その一方で、個人経営の本屋は毎年1000軒以上姿を消しているという。そんな中、地域に根付く「街の本屋」の役割を胸に、奮闘する人がいる。札幌の書店2代目・久住邦晴さん(57)は、父親から店を継いですぐにコンビニの出店ラッシュやネット書店の攻勢を受けて、廃業の危機に襲われた。そして家でも悲しい出来事が…。「なぜだ!?売れない文庫フェア」や「本屋オヤジのおせっかい!中学生はこれを読め!」コーナーの設置など、斬新なアイデアと行動力で闘い続ける久住さんの姿を通して、「街の本屋」が生き残るための課題や地域の人々との絆を浮き彫りにする。

放送:3月21日(日)25:50~
ナレーター:柳生 博
制作:札幌テレビ


・「本屋オヤジのおせっかい!中学生はこれを読め!」コーナーは、私の近くの本屋さんにもあり、その発祥がこの店主の発案であったという。近年の読書離れ、インターネット販売、大型郊外店舗、深夜コンビニ・レンタル店の増加など中小小売書店の置かれている現状は厳しい。それは出版社とて同じだ。そして倒産・閉店する近所の本屋さんなくなっていく。久住さんは2代目店主だが、47歳までは東京で暮らしていたらしい。親の後をついで書店経営を始めてから、経営環境が悪化し赤字続きだった。加えて長男を白血病で失うという試練にもあい閉店も考えていたという…。それから、苦肉のアイデアとして生まれたのが、売れない文庫本フェアだった。これが、成功した。非常識なことは、非常識な結果を生むということばがヒントになったそうだ。加えて、最近書店から姿を消してしまった中学・高校生をなんとか呼び戻したいと考えたのが、中学生はこれを読め!という選書したコーナーであった。また、店内での朗読会を開催するなどアイデアを続けて市民からも期待された存在になった。ところが、書店の近所に新たに売り場面積が大きな4つもの店がオープンすることで、店の移転を決意し新たな店舗で事業を続けていくところで番組は終わった。
本屋さん、図書館とは本当に特別な場所であるというのが私の考えである。確かにネット書店で注文すれば手早く読むことができるに違いないが、それだけではないのが本の魅力である。今年は電子ブック元年となるらしいが、一方で出版という長い文化が培ってきたものをなくすことはできない。自分の目で見て、確かめてから本を買うという習慣ができている以上、なかなかネット書店には馴染めないのが実感である。

児童虐待問題 法王、初めて謝罪 アイルランド教会に教書

児童虐待問題 法王、初めて謝罪 アイルランド教会に教書
2010年3月21日 産経新聞

 アイルランドなど欧米各地で神父らの性的な児童虐待が次々と明らかになり、ローマ法王ベネディクト16世(82)は20日、教会ぐるみのもみ消しも判明したアイルランドのローマカトリック教会に送った教書を公表した。法王はこの中で「心から反省している」と述べ、数十年間にわたり各国に蔓延(まんえん)していた神父らの性的虐待についてローマ法王庁(バチカン)として初めて謝罪、信頼回復を誓った。

 法王は「重大な過ち」を認め、神へのざんげとともに犯罪行為があった場合は法の裁きを受けることを求めた。今後、バチカンもアイルランド教会の児童虐待を公式調査し、法王が被害者と直接面会して癒やしを祈ることを明らかにした。もみ消しに関与したとされるブレイディー枢機卿らの辞任は求めなかった。

 同国では数千人に性的虐待や暴行が繰り返され、1975~2004年の間、4人の大司教が黙認していたことが同国政府の調査などで判明。児童は沈黙を守ることを誓わされており、司教4人が引責辞任した。

 神父らによる性的虐待は02年に米国で大きな問題となり、その後、オーストリアや北アイルランド、オランダ、スイスで発覚。法王の母国ドイツでは300人以上の被害が確認された。法王が司教を務めたミュンヘン教区でも虐待が行われ、性的虐待に関与した神父の教会施設受け入れを認めたとして法王自身にも疑いの目が向けられている。

 こうした批判を受け、法王は12日の一般謁見(えっけん)で「深い懸念」を表明。「アイルランド教会はひどく動揺している。苦痛に満ちた状況に取り組むため、教書に署名する」と述べていた。

 ロイター通信によると、被害者の一人は、法王の謝罪について「被害者への言及が少なく、失望した」と述べた。一部で肉体的・精神的被害について賠償を求める動きも出ている。

 10億人以上の信者を有するローマカトリック教会の権威は低下しており、就任から間もなく5年を迎える法王への風当たりも厳しくなっている。



・権威の低下、権威とは何なのだろうか。それにしても、もう就任から5年にもなるのだろうか。このように、日本の一般新聞が報道することは、それだけ世界的にも大問題なのだ。1%キリスト教徒である日本でも、このような不名誉なことが、連日報道されていることはカトリック・プロテスタント諸教会を問わず情けない状況である。


◆聖職者の性的虐待で被害者に謝罪 ローマ法王、信者あて教書
 2010年3月20日 共同通信

 アイルランドなど世界各地で聖職者による未成年者への性的虐待が次々と明らかになり、ローマ法王ベネディクト16世は20日、アイルランドの信者にあてた教書を発表し「本当に申し訳なく思う」と被害者に謝罪した。性的虐待は今年に入り欧州各国のほかブラジルなどでも報告され、メルケル・ドイツ首相が教会に真相を明らかにするよう求めるなど、バチカンへの批判が高まっている。


福音はとどいていますか52

「人生には、以後に深く影響を与えるような『あの時以来』ともいうべき時があります。いずれにしても、人間として自分を取り戻すように迫ってくる時です。それに気付いて、以後を自分を噛み締めながら生きる、その丁寧さが人間を救います」(藤木正三)1-75あの時以来

・誰にも人生を一変させる出来事にあうものです。その際の人間としての対処の仕方が大変重要ですね。人間としての自分を取り戻させるように解決を図っていくことが大切なのです。それは小さなこともあります。そこを丁寧に見て扱っていくことが日常の勤めというべきでしょう。

危機に瀕する「十字架信仰」

危機に瀕する「十字架信仰」
2010年3月19日 ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 アイルランドのカトリック教会で発覚した聖職者の未成年者への性的暴力事件はドイツ、オランダ、オーストリア、イタリア、スイスなど欧州各地の教会にも拡大してきた。ドイツのメルケル首相は「教会の聖職者の性犯罪問題はもはや教会の問題だけに留まらず、社会全般の問題となってきた」と指摘しているほどだ。
 聖職者の性犯罪問題の背景について、教会関係者、神学者から精神分析学者、法学者まで、さまざまな意見が出ている。その中で、ドイツ・カトリック教会中央委員会(ZdK)のアロイス・グルック会長は「教会は抜本的な刷新が求められている」と言明する一方、「教会という機関(Institution)の危機であるが、信仰の危機ではない」と述べている。
 すなわち、聖職者の性犯罪問題は、聖職者の独身制や修道院の閉鎖性など、教会関連機関の欠陥が原因だが、カトリック教会の信仰自体は問題ではない」と主張しているわけだ。
 教会という機関が正常に機能していないという意味で「機関の危機」は理解できるが、果たしてそれだけであろうか。当方は会長が否定した「信仰の危機」こそ、聖職者の性犯罪の本当の原因ではないかと考える。
 カトリック教会の教義に基づくならば、イエスの贖罪によって人間の罪が許される道が開かれた。贖罪のシンボル、イエスの十字架を仰ぎ、信じるならば罪から解放される。この十字架の救済こそ、信仰の中核だ。
 問題は十字架を信じて、罪から完全に解放された人間がこれまでにいたかということだ。新約聖書の聖パウロの嘆きを指摘するまでもなく、全ての人間は依然、罪の虜になっている、という現実を否定できない。
 それでは、イエスの十字架は何を意味するのか、といった神学的な問題が湧き上がってくる。十字架を信じ、イエスの教えを伝える聖職者が「愛と性」の問題では、イエスの教えを信じない異教徒より無防備な状況下にあることを、アイルランド教会やドイツ教会の聖職者の性犯罪問題は示しているからだ。
 批判を覚悟でいえば、聖職者の未成年者への性犯罪は教会という機関の欠陥から誘発された不祥事というより、十字架信仰の限界によってもたらされた結果ではないか。熱心に祈り、善行を積んできた聖職者も「愛と性」の問題に躓いているからだ。
 欧州全土に広がる公共施設で十字架をかけるかどうかの議論も表面的には社会の世俗化がその背景にあると受け取られているが、十字架信仰に価値を見出せなくなった結果ではないか、ということだ。社会が世俗化したとしても十字架が人間を幸せにしているならば、誰がその排除を要求するだろうか。
 「聖職者の性犯罪問題」と「公共施設の十字架問題」は結局、同じ問題をわれわれに提示している。キリスト教の信仰の核、十字架信仰の危機だ。
 ある神学者は「十字架の問題は童話『裸の王様』に似ている。誰かが十字架を『悲惨で醜い』と叫び出せば、これまで沈黙していた人々からも疑問が飛び出すだろう。十字架は神の勝利ではなく、むしろ悲惨な敗北のシンボルではないか、といった神学的な問い掛けも出てくるだろう。だから、バチカンは十字架論争を恐れているのだ」という。
 「イエスは罪深い人間を救う為に自ら十字架で亡くなった。その贖罪によってわれわれは生かされている。十字架は神の栄光だ」と主張する教会の十字架信仰こそ今日、危機に瀕しているのだ。



・「聖職者の性犯罪問題」と「公共施設の十字架問題」は結局、同じ問題をわれわれに提示している。キリスト教の信仰の核、十字架信仰の危機だ。←組織(機関・制度)の問題ではなく、信仰の問題であると記事は書いている。ただ、十字架信仰といっても、その受け取り方はさまざまであり結局は個人の納得の問題である。納得のあり方が不十分であり、その深まりを求める方法が軽視されていることが信仰のあり方の現象として、社会的な問題となっていると考えられる。

煩悩林16

   蛙

私は地獄をすみかとし
浄土をすみかとする
ぶさいくな両棲動物です

・カエルのように、ピョンピョンと二つの世界を飛び回る。
ぶさいくとは自嘲ぎみ、カエルはカエル。

ローマ法王が初の英国公式訪問へ

ローマ法王が初の英国公式訪問へ
2010年3月18日 産経新聞

 ローマ法王ベネディクト16世が9月16~19日の4日間、エリザベス女王の招きで英国を公式訪問する。英王室が16日発表した。16世紀に英国王ヘンリー8世が離婚問題を機にローマ・カトリックと決別、英国国教会を成立させてから法王の公式訪問は初めて。エリザベス女王は1980年、英国家元首としては初めてバチカンを公式訪問。82年には前法王の故ヨハネ・パウロ2世が非公式ながら初訪英して4世紀ぶりの和解を果たしている。(ロンドン 木村正人)



・歴史を感じることなのですね。

「不安あおった」統一教会に1億円超賠償命令

「不安あおった」統一教会に1億円超賠償命令
2010年3月11日 読売新聞

 不安感をあおって約20年間にわたり献金や物品購入を強要されたとして、福岡県内の元女性信者(提訴後に死亡)の遺族2人が、世界基督教統一神霊協会(統一教会、東京)を相手取り、約1億4380万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が11日、福岡地裁であり、高野裕裁判長は教会側に約1億1160万円の支払いを命じた。

 判決によると、女性は1987年1月頃、自宅を訪問した信者から「先祖の悪因縁を断ち切らないと息子たちが長生きできません」などと言われ、40万円の印鑑や4300万円の多宝塔を購入。これをきっかけに入信し、2006年12月に脱会するまで、献金や物品購入を繰り返した。

 高野裁判長は物品販売時の信者らの勧誘行為について、「不安をことさらあおって購入を決意させたと認められ違法」と指摘した。

 献金の多くについては「心理的な圧力を掛けた事実は認められない」と違法性は否定したが、一部の多額な献金は「女性の心理状態につけ込んで献金を要請し、違法というべきである」として、約1億130万円分を不法行為による損害と認定した。

 統一教会広報局は「主張が一部認められたことは評価するが、その他の部分については判決文を検討し判断したい」とのコメントを出した。



・宗教団体と経済行為。統一教会は今でも霊感商法を続けている。彼らのやり方は、問題を起こす宗教団体と同じである。宗教団体であることを隠して、いろいろな美名で近づき信頼を得ると徐々に彼らの信仰原理を教え込んでいく。そして、経済的にも不当な利益を得ているにも関わらずにダミー会社をいくつも介在させることで関係性を否定していく。宗教であることに気づくのが素人では不可能であろう。例えば、平和運動をしている、海外地震に対する寄付を集めている、障害者の人権擁護をしている…どんなセリフを並べても検証は不可能だから、言葉巧みに相手につけ込む。よほど注意しないと騙されるのが悲しい点である。

ローマ法王の沈黙に批判高まる

ローマ法王の沈黙に批判高まる
2010年3月16日 ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 世界に11億人の信者を誇るローマ・カトリック教会の最高指導者、ローマ法王べネディクト16世が14日、慣例の日曜祈祷で聖職者の未成年者への性犯罪問題にまったく言及しなかった事に対し、教会内外で激しい批判の声が挙がっている。
 アイルランド教会、ドイツ教会、オランダ教会、そしてオーストリア教会で連日、聖職者による未成年者への性的暴力が判明し、信者たちの間で大きな動揺がみられる時だ。それだけに、ローマ法王から何らかのメッセージが期待されていたわけだ。
 聖職者の性犯罪は1970年代、80年代に留まらない。バチカン放送によれば、2001年から9年間だけでも300件の未成年者への性的犯罪が報告されている。未成年者だけではなく、成人を含むとその数は3000件に及ぶ。もちろん、判明し、発覚した件数だけだから、実数はもっと多いだろう。
 前日(13日)、ベネディクト16世がドイツ・ミュンヘン大司教区の責任者時代、未成年者に性犯罪を犯した聖職者が再雇用され、その後、再び性犯罪を行うという不祥事が判明したばかりだ。その上、同16世の実兄(ゲオルグ・ラッツィンガー)が責任を担っている教会施設内でも聖職者による未成年者への性犯罪が生じていたことが明らかになった。聖職者の性犯罪問題がローマ法王の周辺にまで迫ってきたのだ。
 にもかかわらず、べネディクト16世は教会最高指導者として性犯罪問題に言及せず、犠牲者やその家族に謝罪を一切表明しなかったのだ。
 その一方、バチカン法王庁は必死に反撃を開始し、「聖職者の性犯罪報道は行き過ぎだ」と、批判の矛先をメディア機関に向けだしてきた。
 もちろん、ローマ法王は本来、謝罪できない立場だ。法王不可謬説があるからだ。しかし、べネディクト16世は法王就任後、米国とオーストラリアでそれぞれ聖職者の性犯罪問題で犠牲者に謝罪を表明している。法王不可謬説のドグマはもはやその効力を失っている。法王の不可謬説ゆえに、ベネディクト16世が謝罪できないとは弁明できない。
 ローマ法王の謝罪表明で聖職者の性犯罪問題が解決されるわけではないが、最高指導者として謝罪の義務があるだろう。
 著名なエクソシストは「悪魔が教会を攻撃している」と述べたという。聖職者の独身制廃止など抜本的改革に乗り出すことができるか、それとも悪魔の攻撃を受け続け、消滅するか、カトリック教会は今、これまで経験したことがない大きな試練に直面しているといえる。



・カトリック教会は、大きな試練に直面しているのは間違いないだろう。記事にあるように、未成年者に対する性犯罪を含む暴力が発端ではあるが、当然に成人に対するものが巨大に控えているという事実を前に欧州の信者たちは問題の根深さに直面するという悲劇を経験しているわけだ。

『バンカー、そして神父--放蕩息子の帰還』

谷口幸紀著 「バンカー、そして神父--放蕩息子の帰還」
亜紀書房・定価2310円

神父への道を模索しながら紆余曲折。その間、リーマンブラザースほか、大手銀行、証券会社で働き、またローマ教皇庁グレゴリアーナ大学で学ぶ。精神障害を持つ妹を「軟禁」状態の病院から引き取り、養っていくためにはお金が必要。妹のため、お金のために金融機関で働くと、お金よりも大事なものがあるような気がして神父への道に一歩近づく。神父の道へ足を踏み入れると、これまた「お金」のために働かなければならない状況に追い詰められ…。紆余曲折を経ながらも、精神障害を持つ妹と関わり、確執のある家族との関係に苦しみ、悪魔のささやきから辛うじて抜け出し、神父となった著者の赤裸々な記録。

「本日の1冊」 nskkbooks.exblog.jp (聖公書店のブログ) 2006-10-03



・さて、キリスト専門書店のブログにあった一神父の半生記。よほど気に入っているから、このブログでは取り上げたのだと思われる。

以下にあるamazon.co.jpにあるレビューを読んで、賛否が真っ二つ状態。もしかしたらヤバい神父か、柔軟性のある神父のどちらかだろうと思う。こういう場合は、あまり推測をしない方がいいというのが私の立場なので興味がある人は読んでみてもいいかもしれない。私は読みたいとは思わない立場。①と②の違いを、ご堪能ください。


①何とコメントしてよいのやら。
  2008/1/30 By y_jade

この方の所属する共同体は、カトリックのとある国内の「教区会計を誤魔化し」、
教区立の神学校を建てたものの、「共同体特有の信仰のありかたを一般の信者にも強制」、従わない信者はミサに参加させないなどと「司祭が脅すことなどをしています」。
また共同体に入れ込んでいた当時の教区長(司教)は、信者を名指しで非難する公式な書簡を出すなどのことで民事裁判で信者に訴えられ、敗訴してます。

<教会内の問題が教会裁判所でなくて民事訴訟になったこと> このことをバチカンは大変重く見ました。民事裁判終了後、韓国の金枢機卿、イエズス会のヨゼフ・ピタウ大司教が 調査のため教区入りしています。結果、教区長が変わりましたが、その調査結果あまりにもずさんな会計管理が判明しまして、神学校の廃校が決まっています。また、この共同体の特徴は、教会内で「内輪以外に内緒での」宣教・活動をすることにあり、すでにある教会組織で『うまくいっているところですらも』壊しかねないところにあります。

この神父さまは大分、例の共同体に深くかかわっておいででしたが、久し振りにお名前を拝見しました。ほとぼりが冷めた頃とお考えでしょうが、ご自分が関わった運動のおかげで苦しんだ普通の教区信者のことも考えていただきたいものです。良識ある信者さんであれば、この本の版元が信頼できるキリスト教系またはカトリック系出版社ではないことに疑問を抱かれると思われますので、それほど影響を心配しません。

が、しかし、この方の関わった問題やカトリックをご存じない方のために。

実際発生した問題については被害が甚大でもあるため、共同体について語られた部分に於いては、この本以外からも慎重に内容をご検討されることを読者の方々にはお勧めします。



②異端の神父か
 2006/9/14 By天城葉一

何故 50年近い歳月が流れたのか 1958年に司祭になる志を抱いて 上智大学の哲学科に入学した著者が司祭になったのは 1994年である その長いドラマが本書である著者は 一握りの信者のためでは無く 宗教に縁遠いところで金銭と苦闘している 我々を対象にしている遠い聖職者への道は 3つの部分からなつている 学園紛争による挫折 外資系銀行を渡り歩いたバブル期 ローマで始る司祭への再挑戦 そして 家庭の没落 妹の心の病 精神病院の治療 死などが 随所で絡み合つて毛色の変わった神父が出来上がってゆく
軽やかなタッチの文章は 我々の知らないエピソードを散りばめ 読み始めたら我々を捕らえて離さない
イエズス会の保守性 国際金融の戦略 マザーテレサとの出会い 復活と愛
卑近な例では フィリッピン人女の子が働く ピンクサロンを聖水で清めた話 田舎の小さな教会のミサに バスを仕立てた彼女たちが40人も来た話などもある
時間は全ての人に公平に分け与えられている しかし この本を読む時 生きることの密度の大きさに圧倒され 生き方やその意味を考えずにはおられない
久々に手ごたえのある本に出会った



(参考)目次

序章 ことの発端
1章 神から遠ざかる
2章 マンモンの神(お金の神)に踊らされて
3章 聖職への遠い道
4章 放蕩息子の帰還
5章 2つのヒント
6章 「復活」と「与える愛」について

心の泉35

「ひとつの出来事を隈なく無心に眺めなさい。そうすれば、《救いの歴史》が見えてくる」(アントニー・デ・メロ)1-404

See an event fully unfolded and you will see Salvation History.

・救いの歴史、救済史…。イエスの生涯を眺める。どっぷりと見るのではなく、チラリとしかし無心に眺める。イエスの生涯から、あなたは何を感じるだろうか。一人のヒトが極限まで神を求めて、神を探して、神に祈って果てた。その生き方から、神の救いとは何かが分かるであろう。

カトリック教会の偽情報工作

カトリック教会の偽情報工作
2010年3月15日 ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ローマ・カトリック教会聖職者の未成年者への性犯罪事件は拡大し続けている。熱心なカトリック教会信者として知られているオーストリア国民議会の元議長だったアンドレアス・コール氏ですら、「教会は崩壊の危機に瀕している」と述べ、教会の現状に失望感を吐露しているほどだ。アイルランド教会、ドイツ教会、オランダ教会と共に、オーストリア教会でも聖職者の性犯罪問題が浮上してきた。同国でも連日、新たなケースが発覚している。
 そして遂に、世界11億人の信者を抱えるローマ・カトリック教会の最高指導者、ローマ法王べネディクト16世にも飛び火してきたのだ。同16世がドイツのミュンヘン大司教区の責任者時代(ヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー時代)、教区所属の聖職者が未成年者へ性的虐待を犯したが、同聖職者を解雇せず、他の教区に移動させた。その聖職者は後日、再び性犯罪を犯している。ラッツィンガー大司教は性犯罪を犯した聖職者を処罰せず、人事異動させただけだったことが明らかになったのだ。
 べネディクト16世は「未成年者へ性犯罪を犯した聖職者に対し寛容は許されない」と主張し、性犯罪を犯した聖職者の再雇用を認めない方針を強調しているが、法王自身は過去、他の教区責任者と同様、所属聖職者の性犯罪を隠蔽してきたのだ。
 バチカン法王庁のロンバルディ報道官はメデイアの批判の矛先がローマ法王にまで達したことに危機感を抱き、「報道の自制」すら求め出しているほどだ。聖職者の性犯罪問題は教会の“本丸”に達したわけだ。
 オーストリア日刊紙クリア日曜日版には興味深い社説が掲載されていた。元編集局長のペーター・ラブル氏は「ローマ・カトリック教会は意図的に2つの偽情報を流してきた。一つは、性犯罪は社会でも起きている。聖職者も例外ではないという。事実はオーストリアの聖職者(約4200人)の性犯罪発生率は社会の平均発生率を大きく上回っている。もう一つは、聖職者の独身制とその性犯罪は無関係という見解だ。これも事実ではない。独身制を本当に堅持する聖職者は少ない」と指摘している。
 同国教会最高指導者、シェーンボルン枢機卿は当初、「聖職者の性犯罪とその独身制は無関係だ」と主張したが、聖職者の性犯罪が拡大してきた今日、「(問題の解決のためには)独身制も議題の一つに含まれる」と、その見解を修正してきている。
 教会の偽情報工作で聖職者の性犯罪問題が解決できるわけではない。ラッツィンガー大司教と同様、教会指導者はこれまで所属聖職者の性犯罪が公になることを避け、隠蔽してきたのだ。
 カトリック教会は上から下まで刷新しなければ、もはやその使命を果たすことは出来なくなるだろう。



・この記事にはいろいろな要素が含まれていて、それぞれに興味深い内容である。
わたしが注目したのは、「法王自身は過去、他の教区責任者と同様、所属聖職者の性犯罪を隠蔽してきたのだ」という箇所で、大司教時代の性犯罪聖職者を人事異動させただけで、その男が再犯をおかしていたという事実にある。隠蔽ということばが適切かはさておくとして、問題社員を飛ばすといった感覚で組織を運営していることと宗教家という高い自覚を持つものとしての見識の問題である。それは、結果として各地の組織で行われていたことであり、問題にして解決するという姿勢よりも、不問にして責任を回避したと受け取られても仕方ないだろう。

心の泉34

「大自然――かくもはかなくもろい。たえずその消滅に瀕しているからこそ、かくも生き生きとしている」(アントニー・デ・メロ)1-404

Nature - so fragile insecure, exposed to death - is so alive!

・消滅していくからはかない。だから、一回一回の生を大切に生きる。大自然はプログラムされた美、悠久の時を経て今も同じ旋律を繰り返す。それを前にヒトは居住まいを正される。

住職が自分の寺に放火、前日3億円の保険

住職が自分の寺に放火、前日3億円の保険
2010年3月8日  読売新聞

 約500年の歴史があるとされる寺に放火したとして、埼玉県警は8日、寺の住職だった同県小川町、僧侶西原弘道容疑者(53)を非現住建造物等放火などの容疑で逮捕した。

 捜査関係者によると、西原容疑者は火災前日に約3億円の火災保険に入り、家財道具などを運び出していた。西原容疑者には数千万円の借金があったといい、県警は保険金目的の放火とみて調べる方針。

 関係者によると、西原容疑者は昨年11月5日夜、同県東秩父村安戸の聖岩寺で、本堂や隣接する自宅に灯油をまいて火を付け、4棟約460平方メートルとリースの乗用車を全焼させた疑い。

 出火当時、各棟から同時に火が出たとの目撃情報があり、県警は放火の疑いもあるとみて捜査。本堂や西原容疑者の寝室など数か所から油性反応が検出されたほか、西原容疑者が火災前日、本堂や仏具などに約3億円の火災保険をかけていたことも確認された。

 県警が放火容疑で西原容疑者の親族宅を捜索したところ、火災で焼失したとみられていた徳川家光ら将軍の押印がある古文書9通などが見つかった。さらに西原容疑者が火災前、引っ越し業者に依頼し、けさや法衣、檀家記録など、私物や家財道具を運び出していたことも判明した。

 西原容疑者は普段からリースの高級外車に乗り、寺近くの賃貸マンションを別宅にしていた。スナックで豪遊するなどし、数千万円の借金を抱えていたという。火災後は住職を辞めた。保険金は支払われていない。

 寺は500年ほど前に開山したとされる古刹で、焼失した本堂は約200年前に建て替えられた古い建築物だった。寺では2006年1月にも、当時の住居の一部が燃える火災が発生しており、県警で関連を調べる。



・記事にある、高級外車をリースしスナックで豪遊し別宅生活…これが僧侶の実態の一端ではあると思う。もちろん、これを控えめにした遊びに違いないが…放火までして借金返済計画。余りに短絡的な生活と思考能力でことばが浮かばない。

福音はとどいていますか51

「生の真相、死の真相を分かってしまおうとせずに、その不思議に感動して生きてこそ、いのち本来に即していましょう」(藤木正三)1-74大いに生きる

・人間とはなんと不思議な生き物なのでしょうか。自己意識を持ちながらも自然から少し離れてものごとを考えることができる。生きることに感動することができることは本当に不思議としか言いようがありません。今日もそんな一時を味わいたいものです。

バチカン日刊紙、女性不在を嘆く

バチカン日刊紙、女性不在を嘆く
2010年3月14日 ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ローマ・カトリック教会総本山、バチカン法王庁の日刊紙オッセルバトーレ11日付の社説は、欧州全土を席巻する聖職者の性犯罪問題に関して、歴史家ルセッタ・スカラフィア(Lucetta Scaraffia)女史の見解を掲載している。同女史は「教会の指導部から女性を排除したことが聖職者の性犯罪多発の原因」と指摘、「女性たちが教会内の指導的立場にあったならば、性犯罪に対する男性側の秘密のカーテンを崩していたはずだ」と述べている。同女史の見解は非常に明瞭で、正論だ。
 プロテスタント教会とは異なり、カトリック教会は女性の聖職への道を閉ざし、聖職者は全て男性によって占められてきた。スカラフィア女史は「それが聖職者の性犯罪の誘因の一つとなっている」と説明しているわけだ。
 「神が自身の似姿として男と女を創造した」という旧約聖書の創世記を想起しなくてもいいだろう。女性を教会の意思決定機関から排除したことで、教会はその可能性を半減させてしまったともいえる。
 当方はこの欄で「『アヴェ・マリア』の癒し」(2010年1月28日)という見出しで、「狩の社会、弱肉強食の社会で生きる人間にとって、その痛み、悲しみを慰労してくれる存在がどうしても不可欠だ。人間の弱さを許し、抱擁してくれる存在だ。それがキリスト教社会では『聖母マリア』だった。『聖母マリアの存在』がなければ、キリスト教は世界宗教へ発展できなかったのではないか」と書いた。
 全ての女性がアヴェ・マリアとはいわないが、女性の性稟がもたらす癒しは男性主導の教会ではことのほか貴重だ。もちろん、女性のプレゼンスだけで聖職者の性犯罪が防止されるほど問題は簡単ではない。プロテスタント教会では多くの女性指導者が任命されているが、問題は山積している。
 まとめる。「神が与えた女性の良き性稟を十分利用できなかったことはカトリック教会にとって大きな損失であり、性犯罪を生み出す不健全な環境を醸成していった。聖職者の独身制に対しても、同じことがいえる。スカラフィア女史の見解はその意味で画期的と評価できる」ということだ。
 ちなみに、バチカン市国に勤務する職員数は約4600人。その内、女性職員数は全体の約19%だ。ウーマン・パワーは年々、教会内でもその存在感を拡大してきたが、女性聖職者はいない。前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は1994年、女性聖職者を叙階しない教会法を再確認している。ベネディクト16世も女性聖職者問題では前任者の路線を継承している。



・女性聖職者を認めない理由が恐らくは神学的に長く優位を保っているのだろう。確かに男性しか意思決定機関に入っていないのは合理性がない。わたしはカトリック教徒ではないので、所詮は傍観者にすぎないがキリスト教徒という視点からみると、伝統や神学と信仰的に生きることの違いを直視すべき時に入っている。

偉人たちの無神論的な50の格言14

カール・マルクス(Karl Marx)

30.「宗教は抑圧された生き物のため息であり、心なき世界の心であり、また、それが魂なき状態の心情であると等しく、…つまり、それは民衆の阿片である」


30. Religion is the sigh of the oppressed creature, the heart of a heartless world, and the soul of soulless conditions. It is the opium of the people.

カトリック教会が沈黙したい問題

カトリック教会が沈黙したい問題
2010年3月13日 ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 世界に11億人を超える信者を抱えるローマ・カトリック教会は今、守勢を強いられている。教会内と教会関連施設内で聖職者による未成年者への性的虐待事件が次から次へと発覚し、その弁明に追われているからだ。
 ところで、カトリック教会が黙っている問題がある。聖職者に性的虐待を受けた犠牲者への賠償金問題だ。アイルランド教会、ドイツ教会、オランダ教会、オーストリア教会でこれまで判明しただけでも500件を越える性犯罪が生じている。もし、全ての犠牲者が教会に賠償金を要求した場合、どのような結果をもたらすかを考えていただきたい。
 前例がある。米教会のロサンゼルス大司教区は所属聖職者による性犯罪の犠牲者508人に対し、6億6000万ユーロを支払っている。巨額な資産、不動産を有する教会とはいえ、大きな額だ。そのため、教会建物を売り出す一方、破産宣言を強いられた教会も出てきたほどだ。
 米教会と同様、欧州のカトリック教会が性犯罪犠牲者に対し、1人当たり100万ユーロを支払うとすれば、破産に追い込まれる教会が続出するだろう。ちなみに、欧州では過去、教会側が個々の犠牲者と交渉し、和解する方法で賠償金問題を解決してきた。集団訴訟はこれまでなかった。そのため、犠牲者への和解金の額がメディアに公表されることはほとんどなかった。教会側は賠償金問題を言い出さない方針を貫いてきた。
 ドイツ教会出身でバチカン法王庁「キリスト教間の一致を再築するための諸活動を行う機関」議長のヴァルター・カスパー枢機卿は「私は賠償金問題には言及していない」と弁明しているほどだ。
 問題は、教会側が賠償金を支払う場合だ。どこからその資金がくるかは一目瞭然だ。信者たちの献金であり、教会税がその資金源だ。賠償金の額が公表されれば、これまで沈黙してきた犠牲者も訴えてくる可能性がある一方、平信者たちからは「私たちの献金が聖職者の性犯罪の賠償金に使用されることは我慢できない」といった苦情が飛び出し、教会税の支払いを拒否する信者たちが出てくるだろう。
 ここまで説明すれば、カトリック教会が賠償金問題に沈黙せざるを得ない理由は明らかだろう。聖職者の性犯罪への賠償金問題はカトリック教会を壊滅させる恐れがある。信者から献金が止まり、教会税廃止運動が高まれば、どうすればいいのか。
 聖職者の未成年者への性犯罪は教会の信頼性を根底から崩してしまうだけではなく、教会がこれまで享受してきた巨額な資金が途絶えてしまう危険性があるのだ。



・米国では賠償金で問題を解決している。一方で、欧州のカトリック教会は性犯罪犠牲者と和解することで解決を図っている(むろん、幾らかの謝罪金はあるかもしれないが…)。記事の示すところでは、もし米国流の法廷問題に至るようなこといなれば、欧州も多額の賠償金を支払う義務を負ってしまう可能性があり、その点についてあえてバチカンは言及をさけているということだろう。では、過去の犯罪行為をどのように処理すれば良いのだろうか、個々の犯罪犠牲者に対して誠意を示して許してくれ、水に流そうということで納得できるのだろうか。心に負った傷をどう癒すのか、聖職者個人の犯罪でなく組織的な体質があるならば、組織を正すためには問題を明らかにし責任を負うことで許しを誓うしかないだろう。

「神父さん、子供に近づかないで」

「神父さん、子供に近づかないで」
2010年3月11日 ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 バチカン放送(独語電子版)のHPを開くと、その約3分の2は未成年者への性犯罪に関連した記事だ。同放送のHPを初めて開いた読者は「どうしてバチカンがこれほど性犯罪を報じるのか」と不思議がるかもしれない。
 当ブログの読者ならば、その理由は既にお分かりだろう。バチカン法王庁は発覚した聖職者、修道僧らの未成年者への性犯罪問題でその弁明に追われているからだ。
 ドイツの第一国営放送(ARD)が9日夜、イエズス会系学校で1970年代、80年代に発生した教師(修道僧)らによる未成年者への性犯罪に関する円卓会議を放映していた。
 番組では聖職者の性犯罪と独身制もテーマとなった。医療関係者は「聖職者の性犯罪とその独身制には関係がみられない」と主張する一方、イエズス会修道士は「両者には関係があると思う」と、自身の体験から語っていた。
 円卓会議に出席したカトリック教会聖職者は「性犯罪は教会だけではない。社会全般に拡大している犯罪だ。教会だけを非難するのは適当ではない」と反論。別の参加者は「現代社会の性のリベラル化の影響」と説明していた。すなわち、修道院で児童ポルノグラフィーを収集していた修道僧も社会の「性の氾濫」の犠牲者だというわけだ。
 子供が聖職者の性犯罪の犠牲となった母親は「自分の子供は今、成人となったが、聖職者が強いた性的行為がいまも悪夢となって苦しんでいる」と証言し、「性犯罪を犯した聖職者の再雇用を中止すべきだ」と要望した。そして「神父さん、子供には近づかないで」と悲しい声で呟いていたのが印象的だった。
 別の参加者は「聖職者の性犯罪の犠牲となった友人がその後、自殺した」と報告していた。
 円卓会議ではさまざまな意見が飛び出した。当方の感想を述べたい。社会には確かに性犯罪が蔓延している。教会内やその関連施設内だけではない。問題は、神の召命を受け聖職の道を歩む人間と通常の人間とはまったく同じか、という素朴な疑問が残る。神の命を受け、その教えを伝える聖職者の責任はどうしたのか。聖職者としての誇りはどうしたのか。
 「神父も同じ罪深い人間だ」といった聖職者がいた。それでは礼拝の度に語ってきた「十字架による罪の救済」はどうしたのか。十字架を信じれば、罪から解放されると宣教してきたのは誰か。
 十字架を信じても罪から解放されるどころか、普通の人間と同じ様に性犯罪を犯すとすれば、十字架の救済論はまったく架空の論理に過ぎない、と批判されても仕方がないだろう。
 番組で神学的な観点の議論がなかったのは残念だ。聖職者の性犯罪の本当の原因はそこにあると思うからだ。性犯罪はあくまでもその結果だ。十字架の救済を信じる神父や修道僧も「性と愛」の問題ではまったく無防備な状況にあるのだ。カトリック教義の罪観は余りにも観念的で、説得力に欠けている。



・このような円卓会議がテレビで放送されること自体、お国柄というべきか異常な状態なのだろう。よく不心得者はほんの一部で大部分の者は真面目に働いているというコメントが聖職と言われれる職業人が起こす犯罪の度に語られる。ただ、わたしの実感としては誰も責任は取りませんと公言しているとしか映らない。

心の泉33

「疑いは信仰の友。信仰の敵は恐れである」(アントニー・デ・メロ)1-404

Doubt is Faith's friend.The enemy of Faith is Fear.

・納得できるまで、あなたの神を疑いなさい。そして、あなたが理解した神を信じなさい。疑うことは不信仰ではないのですよ。信仰の最大の敵は、恐怖である。恐怖ゆえにものが見えなくなる。あなたを恐れさせていることを、よくよく見なさい。それがただの風の悪戯であることを知りなさい。恐れてはならないとイエスは言われたではありませんか。

偉人たちの無神論的な50の格言13

ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)

29.「宗教は幻想である。そしてそれは本能的な欲望と調和してしまう力を秘め持っている」


29. Religion is an illusion and it derives its strength from the fact that it falls in with our instinctual desires.

福音はとどいていますか50

「私達は人生を考えたり、理解しようとしたりしているうちに、人生の事実から次第に遠去かってゆくものです。宗教の本心は、人生の事実にそのままとなることです」(藤木正三)1-73人生の事実

・人生の事実とは何か。それは人間が毎日いかに人を足蹴にして生きているかという事実。他人のことを考えているようで実は自分のことしか考えていません。しかし、そうしたことも含めて事実として受け止めましょう。人間はそういう生きものなのですから…。

島田祐巳著「葬式は、要らない」を読んで

島田祐巳著「葬式は、要らない」を読んで
2010年2月28日 エムズの片割れ

今、ベストセラーの2位だという島田祐巳著「葬式は、要らない」(幻冬舎新書、740円+税)を読んだ。その題から、興 味はあったが、「こんなハウツーものなど読めるか・・・」とバカにしていた。でも本屋で手にとって、ツイ読む気になって、買ってしまった。もちろんあっという間に読んでしまったが、「なるほど、さすがに売れているだけのことはある・・・」が感想か?

気になった個所を書き抜いてみると・・・

「葬式は贅沢である」→「最終的に“葬式無用論”に行き着くはずだ」(p15)
「日本の葬儀の平均費用は231万円。葬儀社等へ142万3千円、飲食接待費40万1千円、お寺などへ54万9千円。地域で最低の四国は149万5千円なのに、高い東北は282万5千円。米国44万4千円、英国12万3千円、独19万8千円、韓国37万3千円」(p18より)
「墓埋法で決まっているのは、1)死後24時間経たなければ火葬は行ってはならない。2)火葬は火葬場以外ではダメ。3)埋葬は墓地以外ではダメ。だけ」(p20)
「仏教式の葬式が開拓されたのは、道元が開いた、鎌倉新仏教の曹洞宗においてである」(p65)
「1103年に中国の宋で編集された『禅苑清規』という書物に禅宗の葬式の方法が記されており、『尊宿葬儀法』はすでに悟りを開いた僧侶のための方法、『亡僧葬儀法』は修行の途中で亡くなった僧侶のためのもの。修行の途中にあるということは、完全な僧侶であるとは言えず、その立場は在家に近い。そこで、亡僧葬儀法を在家の信者にも適用した。これによって、亡くなった在家の信者をいったん出家したことにし、出家者の証である戒名を授けるという葬式の方法が確立される。」(p66)
「死者は、生の世界から死の世界へと移るものの出家したわけではない。俗人は、俗人のまま亡くなったはずである。にもかかわらず俗の生活を捨てたかのように戒名を授かる。本来、出家という行為と密接不可分な関係にあるはずの戒名が、それと遊離してしまったのである。・・・しかも、日本では、出家であるはずの僧侶が妻帯し、普通に家庭をもっている。それは破戒ではないのか。・・」(p96)
「檀家という贅沢  檀家の布施がなければ、本来、寺は成り立たない。・・・多くの寺院は檀家の葬式の際の布施や戒名料から維持費を捻出している。ほかに収入源がなければ、葬式に頼るしかない。」(p133)
「檀家になるということは、自分の家の死者を弔ってもらう檀那寺を持つということである。寺の住職は、毎日の勤めをし、本尊の前で読経などを行う。その際には、寺の檀家になっている故人たちの冥福を祈る。檀家にはそうしてもらっているという意識や自覚はほとんどないが、檀家になることで、私たちは祖先の供養を委託しているのである。・・・その点で、檀那寺を持ち、供養を委託できるということは特権的なことである。・・・その特権を護るためには、それ相応の負担をしなければならない。それは当たり前の話である。・・」(p136)
「墓参りの習慣は日本以外の東アジアでも共通することで、中国や台湾、韓国でも熱心に墓参りをする。・・・ところが、これがヨーロッパになると、墓参りの習慣はほとんどない。墓をもうけるものの、それは故人を葬る空間にすぎず、残された家族が命日などにその墓に参ることはない。そもそも個人墓が主流で、日本のような家の墓はない。墓参りをしないため遺族も墓の場所を忘れてしまう。・・・場合によっては、遺体を火葬場に持ち込んだ後、遺族が火葬の終了を待たずに帰ってしまうこともある。遺骨は火葬場で処理され、遺族がそれを持ち帰って墓を作ったりしないのである。」(p148)
「・・・核家族化や高齢化ということが、従来の形式の葬式を意味のないものにし、新しい形式の、より合理的なものを求める傾向を生んでいる。こうした方向での変化は押しとどめることのできないもので、これからはよりいっそうその傾向が強まっていくことになるだろう。高齢者には、家族葬、さらには直葬が基本的なスタイルになり、多くの参列者を集めるような葬式は少なくなっていくに違いない。」(p151)
「簡単に変化していかない部分があるとすれば、それは墓だろう。・・・家を代々継承させていくことは相当に難しくなっている。・・・その変化の全体をながめたとき、方向ははっきりしている。葬式は明らかに簡略化に向かっている。それは、葬式を必要としない方向への変化だとも言える。今や現実が葬式無用論に近づいているのだ。」(p153)


この本は、本の帯で謳っているような、単なる“葬式無用論”ではない。著者が言っていることに、突飛なことはひとつも無い。しかし論じている一つひとつに、ツイ“その通り”と頷いてしまう・・・。
ブッダが死後のことを語らず、本来の仏教も死後のことは語らなかった。しかし日本では鎌倉仏教から浄土信仰が始まり・・・・、と歴史的背景から論じ、日本の葬式仏教が出来あがった経緯を、日本人の文化を背景に論じる。
本の「葬式は、要らない」という刺激的な題とは裏腹に、一般のハウツー本とは一線を画した、極めて真面目な内容だと思う。なるほど・・・・

前にも何度か書いているが、自分の葬式感もだいぶ変わってきている。10年以上前に親父が亡くなったときは、この本でも指摘している「世間体」「見栄と名誉」「死後の勲章」ということを背景に、“贅沢さ”を追ったものだ。
それは“お互い様”だった・・・。でも果たして、葬式に来てくれた人が、本当に悲しんで、または悼んで来てくれたかというと、自分が他の葬式に参列したと同じように、それは遺族である同僚に対する“付き合いから”だった。それは多分に迷惑なことだったろう。でもそれはお互い様だった。香典は葬式への支援金。回りまわって、自分たちが出す葬式も、たくさんの支援金をもらって・・・。

でもこれからは違う。現役をリタイアした人には“付き合い”の関係も少なく、何よりも今は個人社会になっている。従来の“付き合いで参列”という習慣も急速に失速するような気がする。
お寺さんも、この本が指摘しているように、“葬式で食っている”という現状を何とか打破し、別のあり方、別のお寺の存在意義を探して行くことになるような気がする。
少なくても、我が家では直葬=家族葬で充分。本当に本人を知っていて、悲しんでくれる人だけが集う、本来の姿が望ましいと思う。
どの家も何れ来るであろう葬式・・・。それについて考えるチャンスくれた良い本だと思った。



・葬儀についての近年の変化は凄まじいものがある。NHKスペシャルでも報道されているように、無縁死という形式の最期も確実に増加している。仏教がさまざまな変遷をしてきたように、特に葬儀には大金が動くだけに仏教側も葬儀社も遺族も、どこまで簡素で個人を偲べる儀式として残るのか今後とも注目していきたい。

煩悩林15

   底辺

たかぶりの血
あまり頭にのぼらず
ここ 底辺にいるおかげ

・高ぶる心理は、自分自身がひとかどの人間だと感じているからだろう。
どの人間も、欠点を持った者同士という視点が人を豊かに変える。

偉人たちの無神論的な50の格言12

クリストファー・ヒッチンズ(Christopher Hitchens)

27.「証拠のない主張は、証拠のない主張として却下される」

28.「ファルウェルに浣腸してやったら、棺はマッチ箱で済むよ」

  ※ジェリー・ファルウェル:「キリスト教右翼の父」と呼ばれ、キリスト教の価値観に基づいて妊娠中絶や同姓愛、ポルノに反対し、政治面でも大きな影響を与えた米国のキリスト教指導者、2007年73歳で死去。


27. What can be asserted without proof can be dismissed without proof.
Christopher Hitchens

28. Christopher Hitchens On Jerry Falwell: If you gave Falwell an enema, he could be buried in a matchbox.

心の泉32

「愛なる神よ、あなたの要求があまりに大きいとき、わたしは、憤らずにはいられません」(アントニー・デ・メロ)1-404

I cannot but resent you. Love Divine, when I feel you are possessive.

・デ・メロ師は、この瞑想の中でイエスとあなたが二人切りになって出会って会話すると設定させる。イエスを友だちのように思い、互いに率直に怒りと恐れという問題に直面させてゆく。そこで、上記のような会話になる。イエスはわたしにとって重荷であるのであろうか、自由を奪い要求するような友だちなのだろうか? 率直にイエスに尋ねてみていると、次第に、要求がましく苛立っているのは自分の方であるということが分かってくるだろう。

「律法学者」とハイチのピザ屋さん

「律法学者」とハイチのピザ屋さん
2010年2月3日 ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 10万人以上の犠牲者を出したハイチ大地震は改めて自然災害の恐ろしさをわれわれに教えてくれたが、「ハイチ国民の90%はブードゥー教と呼ばれる土着宗教を崇拝している」(同国の宗教データーでは国民の約10%)と指摘、大地震を「神の天罰」と示唆したカトリック教会聖職者がいる。当ブログの読者ならばご存知の人物だ。オーストリアのローマ・カトリック教会リンツ教区のゲルハルト・ワーグナー神父(55)だ。
 同神父には過去、類似した発言が多い。世界の子供たちを虜にしているハリー・ポーターの本を「悪魔の業だ」と一蹴し、ハリケーン・カトリーナ(2005年8月)が米国南部のルイジアナ州ニューオリンズ市を襲い、多くの犠牲者を出した時、「同市の5カ所の中絶病院とナイトクラブが破壊されたのは偶然ではない」と述べ、「神の天罰説」を宣言して憚らないカトリック根本主義者だ。
 その一連の発言が災いして、ローマ法王べネディクト16世から昨年1月補佐司教に任命されたにもかかわらず、最終的には任命辞退に追い込まれた。
 同神父の発言に対し、カトリック教会内でも「自然災害と人間の道徳性はまったく別次元の問題だ。それを関連付けることは間違いだ」という批判の声が挙がっている。
 一方、オーストリア日刊紙クリアは2日付で「ハイチのピザ屋さん」の話を掲載していた。それによると、地震で壊滅的被害を受けたポルトープランスの42歳のピザ屋さんは「市民の多くは地震で家屋を失ったが、わが家は無事で、家族も皆安全だった。信じられない事だ。しかし、地震の被害の深刻さを目撃し、『何かしなければならない』と考え出した。そこで夕方、可能な限りの多くのピザを作り、市民に無料で配っている」という。多くの市民は夕方になるとピザ屋さんの前で暖かいピザを受け取っているというのだ。
 当方はワーグナー神父の発言内容を全て否定するものでもない。自然災害でも人災でも、問題が生じた時、「どうして生じたのか」と自省してみる姿勢は正しいだろう。ただし、多くの犠牲者が出ている時、優先すべきことは救援であり、犠牲者への連帯感だ。その意味で、ワーグナー神父の発言はイエス時代の律法学者のようであり、犠牲者への配慮に欠ける。その点、ピザ屋さんの話は人間の素晴らしさを改めて教えてくれるものだ。ピザ屋さんのようなハイチ人が増えれば、同国は必ず復興できるだろう。



・ハイチ地震の被害はさらに拡大したことは、追記することもないだろう。まったく信じられないが、土着信仰を崇拝しているから天罰が起きたと公言する有名な神父がいるということも驚きである。記者は「律法学者」と称して、聖書に書かれた有名な例え話を言いたいのだろう。誰が本当の隣人であったのかと!? ピザ屋さんがどんな信仰を持っているかは書かれていないが、そんなことよりも彼は本当の隣人であったということだ。
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