福音はとどいていますか27

「しかし、実は思い通りに行かないところこそ生きるべく定められた道であったのであり、予め心に描いていたことの方が勝手な思い込みに過ぎなかった、と考えるのが人生の礼というものでしょう」(藤木正三)1-49人生への礼儀

・今を引き受け、その場になり切る、これが人生への礼儀だと藤木師は語ります。思い通りになってほしいものです。思い通りにならないからこそ、幸せだということもあります。自分自身の欲望は深く、渇望し留まるところを知りません。なぜ私だけが…と不幸を感じることは次々と起こってくることが確かにあります。理不尽・不条理ということばかりの人生ではあります。ただ、そんな人生でも「いま、ここ」では最大限のあなたらしさで生きることができるのです。
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仏教名句9

災難にある時節にはあるがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候。これ災難をまぬがるる唯一の妙法にて候。  (良寛)

・有名な良寛のことば
その場その場になり切るということ。
死ぬときには潔くとか静かにとか言うが、その時のありのままでいいんだね。

安息日─自由の起源

「安息日──自由の起源」
2009年8月10日、京都新聞夕刊
小原克博On-Line

 あなたは休日を心待ちにしているだろうか。あるいは、平日であろうが休日であろうが、区別なく忙しい日々を送っているだろうか。そもそも、「休む」とは私たちにとって、どのような意味を持っているのか。

 多くの人にとって日曜日は休みである。それに加えて、土曜日や国民の休日が休みとなる場合もあるが、少し考えてみれば、このような習慣が日本古来のものでないことは明らかであろう。少なくとも江戸時代まで、一般庶民が休むことができたのは盆と正月くらいであった。それは、休むことを知らない社会、あるいは、休むことを許されない社会であったと言うこともできる。

 開国以降、日本は近代国家としての体裁を整えることに邁進する。その時代、近代国家とは何かということを示唆してくれる人々の中に、在留の外国人がいた。宣教師フルベッキはその一人であった。来日当初、彼は英語教師として働きながら人脈を広げ、後に明治政府の顧問のような役割を果たしていくことになるが、彼が日曜日を休日とすることを提案したようである。

 フルベッキは、西洋キリスト教社会で一般化していた休日としての日曜日の導入が、日本の近代化にとっても重要であると考えたのだろう。いずれにせよ、日本人にとって新奇なこの休日は、近代化政策の一環として、市町村役場や学校などから徐々に普及していった。

 多くのヨーロッパ諸国では平均4週間の長期休暇が保証されている。また、ドイツやオーストリアでは閉店法によって、土曜日と日曜日の商売は原則的に制限・禁止されている。休むことへの並々ならぬこだわりが伝統として息づいているのだ。

 この伝統の起源となったのは、聖書に記されている「安息日」である。神が命じたのだから、休まなければならない、という理屈は実にわかりやすい。日常の雑事からの解放としての安息日は、人の尊厳を支える根源的な自由を考えさせる機会ともなった。もちろん、こうした宗教的な理由だけでなく、今日の西洋社会における休日が、労働者の保護という側面を有していることは言うまでもない。

 わが国でも休日が導入されて久しいが、勤勉の美徳が邪魔をするのか、休むことへの罪悪感は根強く存在している。たとえば、中高校生の部活動への献身ぶりを見るとき、そのことを感じさせられることがある。平日は言うに及ばず、ほぼ毎週末のように学校が生徒を拘束する様子は、休日意識の高い西洋社会から見れば、地獄絵図のように映るかもしれない。日本では、地獄の苦しみを越えてこそ達成することのできる何かがあると考えるわけであるから、もちろん、どちらがよい悪いとは一概には言えないだろう。

 ただ私が危惧するのは、若い頃から「休む」ということの積極的意味を味わうことなく大人になっていった場合、繰り返す日常を批判的に見つめる目を養うことがどのように可能となるのか、という点にある。不自由への忍耐を要求する世界に隷従することなく、複数の世界を渡り歩く自由は、充足した安息の内に宿るように思うからである。


・休日はホントに増えている。土曜日が隔週休日になり、完全休日になっていく経験を通して、こんなに働かなくて大丈夫かと思った。義務教育も時間数が減り、ゆとり教育といわれ学力がガタガタになった。休日は、その使い方いかんだろう。閉店法って言うのか…これは少し見習いたいこと。24時間365日営業なんて、便利なのか!? 闇のある生活ってできないものだろうか。イエスの提起した安息日問題。イスラムでも時間に関する規定がある。日本はずいぶんと暦を忘れてしまった。

013 欠点ではなく、自分のいいところに目を向けよう

・できれば他人に、自分のいいところを指摘してもらおう。
へぇ~って感じることがあると思う。
自分が気づいていなかったこと、癖とかは分からない。
自分らしさが生きることの中心になってほしいね。

難度海20

   頂戴

私がまいにちいきるのに
どれだけ多くの
動物や植物のいのちを
頂戴していることか

・「頂きます!」とは、頂戴すること。
未開といわれる民族には、動物たちとの一体感があり一続きである。
食べる前に、ちょっと立ち止まって見直してみたいなぁ。

米軍基地

「米軍基地」
2009年12月8日、京都新聞夕刊
小原克博On-Line

 普天間基地の移設問題をはじめ、日本国内における米軍基地の存在が引き起こす問題は後を絶たない。戦闘機等による日常的な騒音だけでなく、米軍基地居住者が突発的に起こす事件も、なくなる気配はない。
 いっそのこと米軍基地が国内からなくなればと願う人もいるに違いない。しかし同時に、冷戦後の時代においても、日本はアメリカの戦力に依存し、また、その一翼を担っているという現実がある。憲法が規定する平和主義とは矛盾する現実を私たちは抱えている。
 矛盾と言えば、アメリカ国内における世界最大級の米軍基地(テキサス州フォートフッド)で11月初頭に起こった事件を思い起こさざるを得ない。皮肉にも、世界でもっとも安全であるはずの基地内部において13人が死亡し、42人が負傷する銃の乱射事件が起こった。従来のタイプに当てはまらない「一匹狼型テロリスト」の出現に危機感が高まっている。
 容疑者のニダル・マリク・ハサン氏は軍の精神科医であった。イラクやアフガニスタンから帰還した兵士たちの心の病を治療していた彼は、自らも近々アフガニスタンに派兵されることのストレスに苦悩していた。
 また、ヨルダン出身の両親を持つアメリカ生まれのムスリム(イスラム教徒)であるハサン氏は、戦争への反対を公然と表明する人物でもあった。彼にとって、テロとの戦いはイスラムとの戦いと同義であり、アフガニスタンでムスリム同胞を殺さなければならない状況に置かれることを恐れていた。実際、彼は「良心的兵役拒否」を主張しており、その意味では平和主義的軍人とも言える人物であった。
 このように幾重もの矛盾を映し出した事件であったが、そこにはただ一方的に断罪し、個人の精神的問題へと還元するだけでは済まない、もっと根源的な問題が存在しているように思う。
 犯行の動機は調査中であるが、彼がストレスを高じさせ、残虐な犯行へと至った背景の一つとして、9・11テロ事件以降、繰り返しムスリムであるがゆえの嫌がらせを受けてきたことがあげられる。私はここに、彼の内面における矛盾だけでなく、彼という人物とアメリカ社会との間における矛盾を感じる。
 アメリカは「信仰の自由」を建国に由来するもっとも大きな価値として擁護してきた。10月下旬に、ヒラリー・クリントン国務長官が今年の「国際・宗教の自由報告書」を発表したが、この膨大な報告書では、北朝鮮、イラン、イラク、中国などが問題国として批判されている。しかし、当のアメリカにおいて、果たして信仰の自由や平和主義者でありたいという信念が、十分に守られていると言えるだろうか。今回の事件は、その矛盾を、まざまざと見せつけたような気がする。
 平和主義を標榜するわが国における米軍基地の位置づけも、この種の矛盾と通じるところがある。国家や軍隊が暴力を集中管理するという仕組みを、我々は当たり前のように受け入れてきた。しかし、平和主義と軍事力との間に生じる矛盾は、憲法改正によって解決できないほど、もっと根源的なものであるに違いない。


・極めて重い課題である。
幸いに彼は一命を取り止めたから、動機解明と処罰を受けることになる。ただ、医師として精神科医として学んだことと信仰の両立ができなかったのかが気になる。軍隊が嫌ならば除隊するだけの話なのだ。

解かれた封印~米軍カメラマンが見たNAGASAKI~

解かれた封印~米軍カメラマンが見たNAGASAKI~
2008年8月7日 NHKスペシャル

今、1枚の写真が注目を集めている。

63年前、被爆した長崎で撮影されたもので、亡くなった幼い弟の亡きがらを背負い火葬場の前にたつ「焼き場に立つ少年」と題された写真だ。

撮影したのはアメリカ人カメラマン、ジョー・オダネル。去年8月9日、亡くなった。占領軍として原爆投下後の長崎に入り、その破壊力を記録するため写真を撮影する一方で、軍に隠れ内密に自分のカメラでおよそ30枚の写真を記録した。帰国後、被爆者の記憶に悩まされ、悲劇を忘れ去ろうと全てのネガを自宅屋根裏部屋のトランクの中に閉じこめ、43年間封印してしまう。しかし晩年になって原爆の悲劇を訴え母国アメリカの告発に踏み切っていく。原爆投下を信じる周囲から非難の声を浴びながら、85歳の生涯を閉じた。

なぜオダネルは、軍の規則に違反して写真を撮影したのか。
なぜその写真を長年隠し、晩年になってトランクを開け母国を告発したのか。

その足跡を追う息子が、遺品の中に残された録音テープを発見した。そこには写真に秘められた過去と、真実を伝えざるを得なかったオダネルの思いが告白されていた。



・米国従軍カメラマンの戦後史である。彼は原爆の威力を確認するために長崎に入り、軍規に反して市民を秘かに撮影していた。たれプーさん♪はこの事実を全く知らなかった。今回彼の行動を知り大いに勇気を得た。戦争の面影は生き残った人たちに濃く作用する。なぜ私だけが生き残ったのかと…。彼の写真集は1995年に発刊されていて、この放送がされるまでに10年以上が経過している。長崎の写真は、悲惨な映像ではないが当時の日本人の記録が確かにある。

仏教名句8

花を支える枝
枝を支える幹
幹を支える根
根は見えねんだなあ  (相田みつを)

・頭を支える身体
 身体を支えるいのち
 いのちを支える無限の生命力
 神・仏は見えねえんだなあ

バチカン - ミステリアスな「神に仕える国」

バチカン - ミステリアスな「神に仕える国」(秦野るり子著、中公新書ラクレ)
2009.05.28 極東ブログ

 ひとつクイズ。先日亡くなった盧武鉉元韓国大統領と麻生太郎現日本国総理の共通点はなにか? いろいろある。どちらも優れた政治家であるという点は批判の多さから理解できる。どちらも男性であるというのも共通点だ。クイズの答えとしては、カトリック教徒だとしたい。少し意外性があるのではないかと思うからだ。

 「バチカン - ミステリアスな「神に仕える国」(秦野るり子)」はカトリックの総本山、バチカンの歴史を概説した書籍だ。研究書ではない。著者はジャーナリストでもあり、エクソシストへのインタビューなどにそうした視点が感じられるが、総じてジャーナリズム的な書籍でもない。聖人名などにラテン語とイタリア語の混乱も見られるが、読書レベルとしても高校生が世界史の補助読本として読むのに概ね適当と言えるし、お勧めしたい。私がこの本を読んだのも、バチカンやカトリックについての自分の知識を確認しておくためのものだった。

 特に「第1章 ローマ教皇の成立(イエス・キリスト、殉教と発展の地、ローマ)」「第2章 「神の代理人」へ(中世から近代へ、変化しながら現代へ)」は世界史的な知識のおさらいになっている。日本人も名称だけは知っている、コンクラーベ、カノッサの屈辱、十字軍、テンプル騎士団、マルタ騎士団などのエピソードも読みやすい。女性教皇といったエピソードも西洋文化理解の一端として知っておくべき部類だろう。

 日本では上智大学に関連するイエズス会だが、西欧の文脈で、「今でもイタリア語や英語などで「イエズス会修道士」という言葉に「二枚舌、詭弁家」との意味を持たせるのは、その名残であろう」としているのも、ごく常識の部類だ。つまり、"Jesuit(ジェスイット)"のことだが、この用語自体は本書には出て来ない。

 著者はキリスト教的な生活環境にあった人ではないので、ごく基本的なミスがあるかとも懸念したが、概ねこれでよいだろう。しいて言えば東西分裂の教義的な側面についても触れてもよかったかもしれない。
 個人的には、世界史のおさらいを終えるころの、近代とバチカンの歴史が興味深かった。特に、本書標題にあるバチカン市国成立に関わるラテラノ条約の話なども読みやすかった。
 もう一点個人的には、第5章でも触れられているが、戦後のエキュメニズム(教会一致促進運動)の経緯が興味深かった。私の世代までは、キリスト教の現代史的な課題といえばこれだったものなので、懐かしい思いもあった。

 「第3章 バチカンのしくみ(バチカンの機構、現代教皇列伝、コンクラーベ、ローマ教皇庁)」は国際ニュースを読むうえで必要になる、現代カトリック機構や仕事を理解するためのリファレンスとして利用できる。国家でもあるバチカンはどのような仕組みになっているのかがわかりやすい。私としては読みながら知識の整理を兼ねていたのだが、国務省における「東方教会省」の存在とその変則的な許容性に考えさせられるものがあった。近未来とはいえないだろうが、いずれ大陸中国でカトリックが十分に解禁され、壮大な人口がバチカンに組織されるだろうとき、類似の扱いになるのではないかと夢想した。

 「第4章 バチカン市国の特権と闇(小さい国土をささえるもの、バチカンと外交、バチカンと日本、現代の諸問題)」は、現代のバチカンとカトリックを扱い、現代カトリックが抱える諸問題を簡素にまとめている。こうした問題は、日本ではあまり取り上げられることはないが、国際ニュースなどを追っていくときにいろいろとひっかかることがある。エマニュエル・ミリンゴ元大司教の問題にも率直に言及されていた。
 本書を読みながら、プロテスタントや諸派についても、歴史的な解説を含めた入門書があってもよいのではないかと思えた。入門的書籍と見なされることは少ないが、マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」はある程度、プロテスタントの分類解説になっている。しかし、諸派(denominations)についてはクエーカーが扱われている程度で、それらの延長が重要になる現代アメリカの宗教事情を歴史的に読み解くのには利用できない。



【秦野 るり子】
1982年、東京外国語大学卒。同年読売新聞社入社。経済部、外報部(現国際部)、ワシントン支局(読売新聞初の女性特派員)、ジャカルタ支局、ローマ支局などを経て、調査研究本部主任研究員。1985~86年、コロンビア大学ジャーナリズム大学院客員研究員。2008年1~5月、カリフォルニア大学バークレー校ジャーナリズム大学院客員講師。1986年、米チャタヌガ市名誉市民


福音はとどいていますか26

「人生は本質的に時の問題であって場所の問題ではないということです」(藤木正三)1-48星の手落ちか?

・「今」という時をいかに生きるかで決まるのが人生だ、ということですと藤木師は語ります。私たちは、望んで地上に産まれたわけではありません。気づけば人間社会に投げ込まれて、イヤを言うことすらできないで人生を終えていきます。誰もが、自分自身を持て余しています。確かに、先進国で資産家の家庭に産まれれば生涯安心・安全の条件が確保されます。ただ、それで満足できるかというとそうではないのです。「今」という時間を、どうマネジメントし自分らしく生きるのかは、あなた次第なのです。

難度海19

   凡下のまま

やはり私
悟りひらくのは
かの土(ど)へ行ってから
この土の悟りには
かすかに 慢心がのこる

・悟りって、あまり使いたくない言葉だ。
悟ったとは、立ち止まっている感じがする。
デ・メロ師は気づきという言葉を使うが、気づく→迷う→気づく→迷う→気づく→迷う…という連続した流れを指す。

「天使は空を飛べない」英国の生物学者の研究に批判的な意見が続々

「天使は空を飛べない」英国の生物学者の研究に批判的な意見が続々
2009年12月25日 ナリナリドットコム

ユダヤ教やキリスト教、イスラム教で“神の使い”とされる天使。そのイメージを問われれば、宗教画やさまざまな創作物の印象から、翼を持つ姿を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。“神の使い”として地上に舞い降り、また神のもとへと帰るためにも、翼は必要不可欠なモノとして描かれているが、英国の生物学者の研究によると実はこの翼、空を飛ぶには全く役に立たないのだという。

英紙デイリー・テレグラフによると、この研究者はロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで生物学を教えているロジャー・ウォットン教授。ウォットン教授は先日、学内誌「Opticon magazine」でこの持論を展開し、これまでに描かれた天使を客観的に分析した結果、「空を飛ぶことはできない」と結論付けた。その中で、「代表的な芸術作品を軽く調べただけでも、飛び立つことはおろか、力を使っても飛べないことを示している」とバッサリと切り捨てている。

また、天使が空を飛ぶためには「翼が必要ないほどの激しい風」が必要で、それがなければ浮かぶことすらできないという。人間と同サイズの身体を持った天使では、背中についた翼の大きさ程度では身体を浮かせるには至らず、例え子どもの天使でも「翼を羽ばたかせるための筋肉が足りない」としている。

同様にウォットン教授は「BELIEVING THE IMPOSSIBLE(不可能を信じること)」というテーマの発表の中で、ドラゴンや妖精などにも言及。これらも「空を飛ぶことはできない」としている。その上で、空想上の生物・動物などが翼を持つ意味について「空を飛ぶ夢が楽しいように、翼は“良い精神の象徴”と考えられた」との見方を示した。

「天使は宗教を信じる人にとって重要なアイコン」と、ウォットン教授は天使が大切な存在であることを、決して否定しているわけではない。天使が人間以上の存在として、天国との行き来に翼が必要とされている点は十分に理解している。それでも「これらを見ることは、私たちが信じているモノ、形あるモノとは何なのかということを教えてくれる」と、今回の研究にも意義があると考えているようだ。

しかし、今回の発表を伝えた米紙USAトゥデーの記事に寄せられたコメントを見ると、世間の共感は得られていないようだ。「天使は肉体ではなく、“魂の体”を持っているはず」「この教授は、子どもたちに教えないで欲しい」など、やはり否定的な意見が多い。

また、デイリー・テレグラフ紙に寄せられたコメントでは、「スーパーマン、サンタクロース、妖精も存在していないのだから、空想の世界では何でもできるのでは」「天使が飛べないことは誰でもわかっているけれど、いちいち教授が言うことではない」と、こちらも手厳しい。天使を信じる人にとっても、現実的な人にとっても、今回の発表は「野暮な研究はしてくれるな」ということなのかもしれない。



・浮力を得るには、かなり大きな翼が必要だ。
科学的には無理かもしれないが、天使は考えてると面白い存在かも。
実在いかんではなく、人間のこころを左右する矢を放つことができるからね。
天使の象徴は何なのだろう?

野暮な研究って、英語ではなんていうのかなぁ。いま一つ…。

【やぼ 野暮】  研究社 新和英中辞典
やぼな 〈粗野な〉 unrefined; 《fml》 uncouth; 〈田舎臭い〉 boorish; 《fml》 rustic; 〈気の利かない〉 stiff; senseless; stuffy
やぼなことを言う talk rubbish; say senseless things.

福音はとどいていますか25

「理屈は一番低い真理、祈りは一番高い真理といわねばなりますまい」(藤木正三)1-47低い真理 高い真理

・なぜ生きるのかに人間は捉われています。WHY?ってそんなに大切な質問なのでしょうか。己の存在証明を求めずとも人間は生かされているのです。なぜ、なぜと理屈で割り切ろうとする人間に傲慢を感じます。一輪の花が懸命に咲いているのに理屈がいるのでしょうか。あなたはあなたのままでいいという祈りこそ人間にはふさわしい真理でありましょう。

全身音楽体験~大野和士と子どもたち~

全身音楽体験~大野和士と子どもたち~
12月26日 NHK教育 午後3:00~4:30

 世界で活躍する指揮者・大野和士が子どもにプレゼントする、クラシック音楽特別講座。
 取り上げる曲は、「火の鳥」(ストラヴィンスキー)、「牧神の午後への前奏曲」(ドビュッシー)の2つのバレエ音楽。いずれも、天才バレエダンサー・ニジンスキーを擁し、20世紀初頭に世界を魅了したロシア・バレエ団の代表的な演目だ。
 「この曲を100年前のニジンスキーのように体で表現してください」大野さんから出されたこの難題に、都内の小学生たちが3か月かけて取り組んだ。大野さんの鮮やかな解説と、ダンスグループ・コンドルズの助けで、子どもたちは自由に想像を広げ、思いもつかないような表現を生み出していく。
 テレビを見ながら、子どもたちと一緒に音楽を体感してもらいたい。



・現在音楽監督を務めるフランス国立リヨン歌劇場管弦楽団を率いての日本公演に先立つ企画。
今年8月に単身来日した大野は、都内2小学校の学生に課題曲に合わせてダンスを創作するように指導。2曲はクラシックの名曲である。もともとバレエ団のために書かれた音楽なので踊りやすいのだろう。大野は、音楽は耳で聴くのではなく全身で感じるものだと語った。舞踊と音楽は近しい関係なので表現しやすい。最初の課題では曲を聴いてのイメージを描かせるというものだった。NHKでの顔合わせの後、3カ月をかけて作品を仕上げて、11月の来日公演に合わせて披露させた。小学校の体育館で行われた披露は、リヨン管弦楽団のメンバー有志が実演を披露して後に発表された。また、オーチャードホールでの演奏会では、聴衆に参加してもらい曲に合わせて身体を動かしてもらうという趣向で進行した。コンドルズという若手ダンスグループの人たちが、踊りのアドバイスをして一段と見ごたえあるものとなっていた。大野は多忙な中も帰国しては、身障者・高齢者の慰問、子どもたちへの音楽教育を欠かさないことで人望もある。個人的な思いとしては、音楽の裾野を広げることに対しては良いことだと感じる。後は、個人が深く音楽と触れあい魂の浄化をもってもらいたい。子どもたちが生の音楽に触れる時の顔は美しいと思う。

ローマ・カトリック教会の“老い”

ローマ・カトリック教会の“老い”
2009年12月26日 ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ローマ法王べネディク16世(82)が24日、クリスマス記念礼拝のためサンピエトロ大聖堂に向かって歩いていた時、1人の若い女性が法王に向かって飛びつき、警備員が即、女性を倒し、その勢いで法王も転倒した。法王は怪我はなく、礼拝は予定通り行われた。拘束された女性は「精神状況が不安定」という。
 バチカン放送によると、女性は25歳、イタリアとスイスの国籍を有する。「法王、襲われる」というブレーキング・ニュースが流れた時、世界11億人のカトリック信者たちは驚いたことだろう。
 ところで、バチカンからの外電を読んでいると、ドイツ出身の法王が転倒した時、随伴していたフランス人枢機卿も転倒し、骨折し、病院に運ばれたという。当方はこのニュースにもっと衝撃を受けた。
 ローマ・カトリック教会の階級では、枢機卿は法王に次ぐ最高位聖職者で、バチカン法王庁の政策を決定する最高意思決定機関に属する(法王が倒れた場合、次期法王を選出するコンクラーベが招集されるが、80歳以下の枢機卿が投票権を有する。現在、有資格者の枢機卿は112人だ)。
 当方が衝撃を受けたのは、ローマ法王を筆頭に世界のカトリック教会を指導する枢機卿たちが高齢者集団であるという事実を改めて知らされたからだ。枢機卿たちは信仰歴も長く、牧会経験も豊富だが、いつ倒れ、怪我をしても不思議ではない高齢者が多い。今回骨折したフランス人枢機卿は87歳だ。“空飛ぶ法王”と呼ばれ、強靭な体力を誇った前法王、故ヨハネ・パウロ2世も風呂場で倒れ、腰の骨を折ってからは、完全には体力を回復できずに終わった。
 平信徒の教会刷新運動「われわれは教会」のように、ローマ・カトリック教会の改革を求める声は世界至る所で聞かれる。聖職者の独身制の廃止運動もその一つだ。しかし、70歳、80歳台の枢機卿たちが教会の頂点にたつ現教会体制では新鮮な考えや斬新な改革案は飛び出さないだけではなく、健康問題という爆弾を常に抱えている。
 ローマ・カトリック教会の現体制は旧ソ連連邦の崩壊直前のそれと似ている。レオニード・ブレジネフ書記長の死後(1982年11月)、ユーリ・アンドロボフ、そしてコンスタンティン・チェルネンコの高齢指導者の短命政権が続き、ソ連国民からは「健康で若い指導者待望論」が飛び出したことがあった。
 「女性がぶつかり、法王が倒れ、随伴していた枢機卿も転倒して、骨折した」というニュースは、当方にはローマ・カトリック教会が抱える“老い”を強く感じさせた。





・報道された動画で、女性が法王に突っ込む場面が映し出されている。
この女性は以前にも同様の行為をしていたという。何らかの病を抱えているのかもしれない。

この記事の指摘するところは、カトリックの頭脳は年齢・健康問題を抱えているという点だ。
歳をとれば保守化するとは断言できないが、新しい風を知り大胆に変革する気持ちが失せるのは想像できること。
この事件が世界的ニュースになったのは、バチカンの持つ政治・経済力がいかに大きいかということだ。

仏教名句7

得るところ少なくとも、その得るところを軽んずるなかれ。 (法句経)

・すべて軽んずるなかれ。

心の泉15

「わたしは、この真理に、――あらゆる出来事が現実的は、その反対のことを示しているにもかかわらず――固く立っている。すなわち、わたしの人生は、この世にとって恵みであり、祝福であった、という真理に……」(アントニー・デ・メロ)1-402

This truth I firmly hold, all evidence to the contrary not withstanding: My life has been a gift a blessing to the world.

・わたしの人生は、恵み・祝福であった。イエスをはじめとする達人たちは共通して、このような意識を持っている。誰も生まれてきたのが不幸だった、死んだ方がましだとは言わない。自分の所有物のように自分の人生を考えることは当たりまえかもしれない。ただ上手くゆかない毎日の生活で見失っていくのが、自分が在るという感覚。生きている意味があるとかないとかではなく、唯在るということが既に赦され救われているということ。

日本仏教各宗の教えと生き方

雑誌「大法輪」の2010年1月号特集「日本仏教各宗の教えと生き方」目次

「法相宗」=煩悩にとらわれた我が心を凝視し、自分を変えていく
「天台宗」=全てのものが仏になれるという希望をもって生きる
「真言宗」=十善戒を守り、身・口・意を正しくして生きる
「融通念佛宗」=融通和合の力で生かされていることの自覚を
「浄土宗」=愚者の自覚をもち、南無阿弥陀仏を称えつつ生きる
「浄土真宗」=苦境・逆縁を喜びに転じて、ご恩報謝の人生に
「臨済宗」=生活の場そのものが悟りの世界。随所に主となる
「曹洞宗」=一日二十四時間、一生すべてを修行と受けとめる
「日蓮宗」=法華経を信じ、題目を唱えれば煩悩は解き放てる
「時宗」=神仏を尊び、他を排せず、ただ愚直に念仏を唱える

心の泉14

「あることを考えると、すぐさま安らぎが訪れることがある。誰もが、このような力をもつ思いや考えを心のうちにもっているものだ」(アントニー・デ・メロ)1-402

Each person carries in him thoughts that have the power to bring him instant peace.

・それは、あなたにもある。自分が子どもだった頃に懸命に育ててくれた母親の記憶。自分の食べ物をも惜しげもなく投げ出して世話してくれた。それに対して、何かお返しをしただろうか。このような忘れてしまった記憶の中でもヒトは先祖を受け継ぎ、次世代に繋いでいく。

仏教名句6

師に二種あり。一には法、二には人。 (空海)

・仏法とは、教えに従い師に従うもの。
宗教は、そのような構造を持っている。

宗教も友敵分ける小沢流

宗教も友敵分ける小沢流――編集委員・伊奈久喜
09.12.20 日経新聞

ことし5月に91歳で亡くなった英国の詩人、ジェームズ・カーカップは、約40年前、日本のクリスマスを「異教徒の商業主義」と見た。キリスト教では、クリスマスイブまでの4週間を「待降節」と呼び、神の子の誕生を静かに待つ。

商業主義的クリスマスは日本に限らず、世界的現象だが、キリスト教団体が、例えばサンタクロースの衣装をみだりに使うな、などと訴えた話は聞かない。キリスト教は排他的なのか、クリスマスを前に、旧聞を検証する。

民主党の小沢一郎幹事長は、11月10日、次のような宗教観を述べた。

▼キリスト教=排他的で独善的な宗教だ。キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰っている。

▼イスラム教=キリスト教よりはいいけど、排他的だ。

▼仏教=人間がどのようにあるべきか、心の持ちようや生きざまを原点から教えてくれる。

日本キリスト教連合会(山北宣久委員長)が抗議書を送った。小沢氏は11月16日に「仏教は死ねばみな仏様になる。ほかの宗教でみんな神様になれるところはあるか。基本的な考え方が違う」と述べた。

10日の発言は、和歌山県高野町で全日本仏教会松長慶会長との会談後に、記者団を前に飛び出した。深い思いからではない、印象論とあえて考える。

16日の発言でもわかるように、小沢氏は仏教を寛容の教えとは知ってはいる。が、それが胸に深くあれば、他の宗教に「独善的」「排他的」といった否定的な言葉は使いにくい。使えば、仏の道に反するからだ。

チベット仏教の指導者、ダライ・ラマ14世は10月31日、東京の外国特派員協会で会見し、宗教者にとって敵とも思える世俗主義に触れ、次のように語った。

▼世俗主義は宗教の拒絶ではない。あらゆる宗教を受け入れることだ。

敵にも懐深く対応する。仏教的寛容なのだろう。一方の小沢発言は、政治論としても適切さを欠く。

世界人口の35%がキリスト教、19%がイスラム教、仏教は6%とされる。小沢発言は、世界の半数以上の人々を「排他的」と呼んで敵に回す。首相あるいは外相の発言であれば、国際的批判を浴び、進退にも議論が及んだはずである。

特に「キリスト教を背景として欧米社会は行き詰っている」の部分は、近衛文麿が書いた「英米本位の平和論を排す」に通じる。その後の日本の針路を誤るきっかけのひとつになった論文である。

小沢氏は、20世紀前半に活躍したドイツの法学者、カール・シュミットの著書「政治的なものの概念」の実践者のようにみえる。シュミットによれば、友と敵を分け、敵を滅ぼそうとするのが政治である。「友敵」論と呼ばれる。

1997年の新進党解体では「純化路線」が語られた。政策論を無視して自民党と対決し、衆院解散に追い込んだ「政局市場主義」も典型的な友敵論だ。それが勝利し、皮肉にも、鳩山「友愛」政権ができた。

3つの宗教に対する考え方は、いかにも小沢氏らしい。宗教も友敵論だととらえるからだ。

民主党の土肥隆一衆院議員は牧師である。木俣佳丈、ツルネン・マルテイ、羽田雄一郎各氏ら同僚議員とともに、聖書を読み、祈りをささげる記録がサイトにはある。

小沢発言を聞いたキリスト者は、心弱いペトロの過ちをゆるすイエスを思い、胸に言い聞かせるのか。待降節に歌う「マリアの歌」には「おごるものを/とりひしぎて」とある。


・小沢発言は、単純な印象を語ったものだ。
彼には宗教よりも現実的な政治に興味が集中していると思う。
強面・小沢、ソフト・鳩山と舞台で演じているだけだと思う。

福音はとどいていますか24

「人間は生かされている受身のものですから、完全は受身の方向に求めるべきで、欠点の無い方向に求めるべきではないからです」(藤木正三)1-46完全な人

・人間は生かされている存在として、受身の方向に生き方をもっていきたいものです。完全性を求めるとは能動的に社会に働きかけることがよいことのように思えますが、それは人間存在そのものの見方が間違っているかではないでしょうか。欠点のない完全な人間なんていないですから…。

012 一生懸命より”適当”のほうがいいこともある

適当にやった行為が、一生懸命やったことよりもいい結果になってしまった。
ピウス法王、”ココアの法王”の話

断食を破らない飲み物
森永 CacaoFun

チョコレートを愛し普及させたのはヨーロッパの貴族たちですが、彼らについで重要な役割を果たしたのが、当時の僧侶階級、つまり修道士たちでした。
彼らは瞑想の時にピッタリの飲料としてチョコレートを愛飲したそうです。
そしてスペインの修道士の手によって、チョコレートは外国にしばしば運ばれるようになりました。しかし、最初の頃、チョコレートの評判は決して良いものばかりではありませんでした。ウィーンの僧侶は「チョコレートは人を興奮させるので聖職者には飲ませるべきではない」と猛反対しました。

しばらくして、チョコレートは教会の上層部から認められましたが、その理由が実に面白いものでした。
法王ピウス5世は、1569年にチョコレートを飲んで、そのあまりのまずさに驚き、これなら誰もチョコレートに夢中にならないだろうとして禁止を解いたということです。
現在のように味もよく、洗練されたものだったら、即座に禁止!となっていたことでしょう。

その後、チョコレートをめぐって教会内部で大論争が開始されました。断食中のチョコレートは是か非か!というのです。
この論争に結論がでたのは1662年。チョコレートは食べ物ではなく水のように液体であるから断食を破らないと判断されました。
この時、チョコレートが固体であったら、断食中は食べられず、その需要も減少してしまっていたことでしょう。まずくて液体であることが、チョコレートをさらに普及させることになったのです。

東洋経済新報社「チョコレート百科」(森永製菓編)より


・断食規定を強化したために、誕生したのがココア
ピウス5世の味覚が正しかったら、ココアは普及しなかったかもね…

適当とは、丁度いいということかもしれない。

心の泉13

「すぐにでも心に平安がほしいときは、空想のなかで、今から千年たった地球に舞い戻り、自分の存在の名残を捜してみなさい」(アントニー・デ・メロ)1-402

For instant peace of mind return to earth in fantasy a thousand years form now to search for what remains of your existance.

・1000年後に、あなたの痕跡があるだろうか。むろん、ITの利用でデータは残っている可能性はある。ただ、あなたが生きて感じて感動した時代、風景、人は誰もいない。小さなことで悩んでいるひとが、海や山、星を見ると安らぐのは悠久の時を経てもあり続けるからだろう。実際に星の瞬きは何千年前、何万年前の光なのだ。ヒトは死に虚しいと思うかもしれないが、自分の存在が何らかの痕跡を誰かに残しているかもしれない。

011 冒険心がなければ人生の重要なものは見えてこない

「船は港に停泊しているときは安全だ。でも船はそのために作られたわけじゃない」(ことわざ)
ただ安全な港に留まっているとしたら、人生の航海における重要なものを逃すことになる。

・チャレンジ、何かあるのが人生だ。
冒険家はなぜ危険を冒して冒険するのだろうか。
そして、その生きざまにロマンを感じるのはなぜだろうか。
人生は冒険のようなものだともいえる。なぜなら確実なことはいつか死ぬということしか分からないから。
いつでもワクワクできることを見い出そう。身近なところから。

バチカン、ミリンゴ大司教を追放

バチカン、ミリンゴ大司教を追放
2009年12月19日 ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ローマ・カトリック教会総本山、バチカン法王庁は17日、聖職者の独身義務を破棄して結婚し、法王の許可なく聖職者を司教任命したとしてローマ法王ベネディクト16世から2006年9月26日に破門宣言を受けたザンビア出身のエマニュエル・ミリンゴ大司教に対し、「正式に聖職を完全剥奪し、還俗を強行する」と明らかにした。
 ミリンゴ大司教は今後、礼拝もサクラメントも実施できないほか、聖職者用の礼服着用も禁止される。異例の制裁処置だ。
 エクソシストとして世界的に有名な聖職者・ミリンゴ大司教(78)は2001年、世界基督教統一神霊協会(通称、統一教会)の祝福式に出席し、韓国人女性と結婚した。06年にはローマ法王の認知を受けずに4人の聖職者を司教に任命している。
 それを受け、バチカン側は同大司教の破門宣言を表明する一方、「大司教が悔い改め、カトリック教会に戻ってくるのを待つ」として、追加制裁をこれまで保留してきた。
 それに対し、大司教は破門後も「自分は依然、カトリック教会の聖職者だ」と主張し、礼拝や悪魔払いなど聖職を実施。「聖職者の結婚こそ、教会の性モラルを回復できる唯一の道だ」として、聖職者の独身制廃止運動を世界的に推し進めてきた。
 ミリンゴ大司教の結婚に衝撃を受けたベネディクト16世は06年11月、幹部会会議を緊急招集し、「聖職者の独身制」の堅持を再確認する一方、07年3月13日には世界のカトリック信者に向けて「愛のサクラメント」と呼ばれる法王文書を公表し、その中で「神父に叙階された聖職者はキリストと完全に同じでなければならない。独身制は言い表せないほどの価値ある財産だ」と主張、独身制を弁護してきた。
 ちなみに、ローマ・カトリック教会の神父が結婚などを理由に聖職を断念した数は1964年から2004年の40年間で約7万人といわれている。



・悪魔払いって、何なのか!?
映画の世界ではない。日本でも憑依霊を去らせるという霊能者という人たちがいるが…同じ類なのか。
このへんに究極的人生態度とは異なる福音の理解がありそうだ。

福音はとどいていますか23

「偽善の問題は本心を装うことにあるのではなく、本心に対する甘さにあります。その甘さのある限り、たとい装わなくても偽善でしょう。装うこと自体は人間の作法です」(藤木正三)2-45偽善

・偽善者とは良いことをしていると装っていることでなく、内面において偽善だと気づく目を持っていないこと。装うことは誰でもしています。取り組むべき課題を深く追求しない甘さがあるのだと藤木師は語ります。本心を見つめてそこから離れないようにしたいものです。

難度海18

   石知らず

捨石は
世に役立っているのを
知らずに
捨石になっている

・ムダな人間、ムダな仕事があるだろうか。
億単位の年収を稼ぐ人、1日1ドル以下で暮らす人がいる。
その生き方が、自分を肯定しているか否かが問題になるのだろう。

あなたの生きざまが、人に感動を与えていることもあり得る。
飼い葉桶に産まれたイエスの伝承は、人間の出自が問われることでないことを示している。
どう毎日を生きるのかという、態度が問われている。

オーラル・ロバーツ氏死去 91歳 ペンテコステ派の第一人者

オーラル・ロバーツ氏死去 91歳 ペンテコステ派の第一人者
2009年12月16日 christiantoday

 「霊の賜物」による癒しや異言、預言の実践などで知られるペンテコステ派を代表する伝道者、オーラル・ロバーツ氏が15日、肺炎による合併症のため米オクラホマ州の病院で死去した。91歳だった。

ETV8 世界の児童文学者に聞く ミヒャエル・エンデ

【アンコール放送】ETV8 世界の児童文学者に聞く ミヒャエル・エンデ (初回放送日 1986年8月25日)

「モモ」や「はてしない物語」など、現代社会の問題も取り入れた作品で世界的に愛読され、評価されているミヒャエル・エンデ。作品を紹介するとともに、その児童文学観を、文化人類学の山口昌男教授が聞く。

・惜しまれつつ亡くなったエンデ。晩年は貨幣の役割を考えていた。利子を生むということが大きな矛盾の始まり。当時は、地域通貨ブームになり各地で実践がされていた。現在どうなっているのか調べたことがないが、あまり聞かなくなった。利息を生むという当たり前のように考えられていることが、果たしてどうなのだろうか。利息を得る人たちは働くことなく巨万の富を得ている。それが未来永劫続くのだ。その思想の発展はいかに。
さて、この対談は1986年で西ドイツ児童文学者と紹介されていた。時代を感じる。エンデの父は画家でシュールレアリズムの先駆的な仕事をしたが、ナチス・ドイツに退廃芸術の烙印を押されて収入を閉ざされ金銭面で苦労したという。戦争末期には少年兵として友だちが死んだり空襲で一夜にして廃墟になる現実を見ていた。彼は劇作家になろうとしたが、学費がなく俳優の養成学校に行くことで勉強を実地にしたいと考えた。2年間学んだあと俳優として活躍。その後、舞台劇作家となった。対談の難しい点であるが、かなり編集されていて質問と答えがうまくかみ合っていなかった。また、インタビューした文化人類学者・山口教授が適任だろうかと感じた。エンデが語る作品の背景を知ると作品の意図がよく分かる。
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