花火と日本人

「瞬間に輝き、消えてしまう刹那の美」
「日本人が花火を味わう感性はとても繊細でみずみずしく、受け止める感情の種類も多様だと思います。花火には楽しい、豪快、華々しい、大騒ぎできる、というストレスを発散する開放的な明るさがあるのは間違いないのですが、こうした陽気な面とは対照的な、ウエットな部分、つまり哀しみや、寂しさ、切なさといった部分を感じていて、しかもそれを味わっているのだと思うからです」(小野里公成、花火写真家)
たれプーさん♪も近くの花火を見に行きました。花火にはかなさを感じます。一瞬の芸術。そして二度と見られぬ思い出に。
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福音はとどいていますか13

「『できる限り』はその時その時かわるものです。尤もそれを口実に怠けないようにしたいものです」(藤木正三)1-34できる限り(Ⅰ)

・できる限りするしかないわけですから、そうしましょう。出し惜しみしなけりゃ、人生は充実する。

バチカン「神の銀行」に捜査の手 資金洗浄に関与か

バチカン「神の銀行」に捜査の手 資金洗浄に関与か
2009.11.27 産経ニュース

■バチカン銀 マネーロンダリング疑惑

 ローマ法王庁(バチカン)の財政管理組織「宗教事業協会」(IOR、通称バチカン銀行)がイタリアの民間銀行を通じて巨額のマネーロンダリング(資金洗浄)を行っていた疑いがあるとして、イタリア司法当局が捜査を始めた。「神の銀行」とも呼ばれるバチカン銀行をめぐる不透明な金の動きは、これまでにも度々指摘されてきたが、法王庁があるローマ市内のバチカン市国は独立国家であるため、捜査の手はほとんど及んでこなかった。司法当局は、民間銀行の捜査を尽くし、その過程でバチカンにも捜査協力を要請する方針だ。“アンタッチャブル”な世界の核心にどこまで迫ることができるか。

 伊ANSA通信などによると、バチカン銀行は過去3年間にわたり、イタリアの民間銀行最大手、ウニクレディトのサンピエトロ広場(バチカン市国内)にある支店の複数口座を通じ、多額の送金を行ったが、このうち少なくとも約6000万ユーロ(約80億円)分について、受取人や口座の実質的管理者名を明らかにしていなかった。イタリアでは2007年から施行されたマネーロンダリング対策新法により、これらの明示が義務づけられている。不透明な資金の流れは、イタリアの中央銀行のイタリア銀行が把握、司法当局に通報した。

■マフィアと関係の取引先も

 ローマ法王は19世紀のイタリアの国家統一の過程で、すべての法王領を失ったが、1929年にムッソリーニ政権下のイタリア政府とラテラノ条約を結び、バチカン市国以外の領地を放棄する代償として7億5000万リラ(現在の約1200億円に相当)の補償金を得た。この補償金と世界中の信者からの献金を原資に、投資銀行などを通じてバチカンの資産運用を行っているのがバチカン銀行で、前身の法王庁財産管理局が改組されて1942年に設立された。

 だが、取引のあるイタリアや米国の銀行の担当者の中にはマフィアの世界とつながりのある者もおり、他国の捜査機関が原則として指一本触れることのできないバチカン銀行は、麻薬資金などの巨大な洗浄装置として悪用されるようになったとされる。法王庁は一貫して否定しているが、一説によれば、バチカン銀行は資金洗浄額の10%以上を手数料として取り、得た利益を東欧や中南米の反共組織に送金していたともいわれている。

■調査中に不審死相次ぐ

 1978年9月には、バチカン宮殿で法王就任からわずか33日目のヨハネ・パウロ1世が65歳で謎の急死。遺体は解剖もされないまま、あわただしく埋葬された。ヨハネ・パウロ1世はバチカン銀行の改革と大規模な担当替えを表明したばかりだった。その後、翌79年にかけて、バチカンの不正な金融取引を調査していたイタリア当局の検事、刑事ら5人が、相次いでテロの犠牲者となった。

 82年6月には、バチカン銀行の主力取引行で13億ドルの不正融資が発覚したイタリアのアンブロシアーノ銀行の頭取が、銀行破綻直前にロンドンで変死体となって発見された(英当局は後に他殺と断定)。

 こうしたスキャンダル、疑惑は小説の題材にもなっているが、実態はベールに包まれたままだ。今回、イタリアの司法当局者は「まずは地道に口座の名義人と管理者を特定し、突破口を開く」と話している。

 法王がベネディクト16世(82)に代わってからは初めて及ぶ捜査の網。成り行きが注目される。


・なかなか歴史的な話である。バチカンの闇は深い。情報公開されないから、いろいろな憶測を生んでしまう。それが、神の名前で行われていることが怪しい。陰謀史観に染まらなくとも、クリーンになってほしいね。

キリスト教会の「性犯罪」

■キリスト教会の「性犯罪」(AERA 2008/4/14号)
 宗教最新情報 2008/4/15
 
◆これはカルト教団の話ではない。信者が司祭から虐待を受けた。
被害者の心の傷は根深い。「神」はどう判断するのか。
「これからすることは誰にも言っちゃいけないよ」 男はそう言うと、ソファに並んで座っていたアケミさん(仮名)の下着の中に手を滑らせた。
当時小学4年生。男は彼女の一家が代々通う、日本聖公会高田基督教会(奈良県大和高田市)の牧師だった。
英語を教えにアケミさんの自宅を訪れるたび、牧師は性的虐待を繰り返した。
ある日トイレで、床に並べたスリッパに頭を乗せて寝そべるように言われた。
牧師の頭が股間に迫り、もてあそばれた。「気持ちいいか」うん、と答えると、牧師はうれしそうな顔をした。
他の部屋にいた家族は気づかなかった。やがて、虐待の場所は、自宅から教会に隣接する牧師館へ、そして教会へと移っていった。
鍵のかかる準備室で、礼拝堂の床の上で、祈りの後で信者たちが食事を囲む机の上で、虐待された。
「大人の女性になるために必要なことだ」と、繰り返し念を押す牧師の言葉を疑わなかった。
痛いときも、大事なことだといわれて我慢した。
被害意識がないまま、牧師が転出する中学3年まで虐待は続いた。
 これらのすべてを、2005年3月の大阪高裁判決が事実と認定した。

◆キリスト教の牧師・神父は「聖職」とも呼ばれ、神と信者の仲立ちをする「高潔な人物」とされる。
しかし現実には、牧師たちによる性的「犯罪」行為は繰り返されている。過激な教義を持つ「カルト集団」の話ではない。
歴史も認知度もあり、全国に多数の教会や関連学校、病院などをもつ教団の牧師が加害者なのだ。

◆福岡県のカオリさん(仮名)が、日本ホーリネス教団平塚教会(神奈川県平塚市、現在は廃止)の牧師が宿泊する博多のホテルを訪ねたのは、21歳の時だった。
牧師は、病気の子どもやお年寄りたちに福音を説く「星の子どもたち」の活動で全国を回り、手伝いを求めていた。
2年前に父親をがんで亡くしたとき、頻繁に病床を訪ね、召天式も執り行ってくれた牧師を、彼女は尊敬していた。
しかし、ドアを閉めた牧師にベッドに押し倒された。抵抗も拒否もできなかった。
これ以降、牧師が月1回程度の割合で九州方面を訪れるたび、ホテルに呼ばれた。
1年がたったころ、カオリさんの強い主張で関係は終わった。
しかし、彼女の心には深い傷が残った。
摂食障害となって食べては吐くことを繰り返した。食費は一日1万円を越え、トイレの排水口が詰まった。
牧師を相手取って起こした裁判は1,2審とも、牧師の不法行為を認定し、550万円の損害賠償を命じた。
だが、牧師は約3年にわたり支払いを拒否。彼女の傷は癒えなかった。
裁判終結から1年ほどたった02年秋のある朝、母親が起きると、カオリさんの姿はなかった。近所を捜したが見当たらず、捜索願を出すために立ち寄った警察署で、13階建て市営アパートで飛び降りがあったと聞いた。
遺体安置所に行くと、カオリさんが横たわっていた。
苦しみから解放された顔をしているように、母親には見えた。26歳だった。
母親は教会での性暴力について冊子にまとめ配っている。

◆牧師の「犯罪」には、他とは違う特徴がある。
その1つが「神の利用」。わいせつ行為を「救済」と説明する。

◆カオリさんのケースでは、牧師はホテルの部屋で会う前に、幾度となく彼女に電話をかけ、ひわいな言葉を投げかける一方で、聖書の話をしたり、祈りをささげたりした。
直接、苦情を言ったときも、「自分たちの関係は神様だけにしか分からない」と牧師は言った。
こうした牧師の言動を、福岡地裁判決は、こう断言した。「聖母マリアの例を引いて自分への従属を示唆、要求した」 もう一つの特徴は、いったん事が表面化すると、「司祭がわいせつ行為などするはずがない」という認識を前面に出してくる点だ。
アケミさんを虐待した奈良県の牧師は、一度は被害者側に土下座するなど加害を認める素振りを見せた。
ところが、その後、彼女が提訴に転じると、「(アケミさんには)妄想的傾向があると思われ、そうした精神状態がなさしめた訴訟」と態度を翻した。
そして、「私は牧師です。毎週礼拝を司式し説教もします。もしも原告の言うような悪魔的な行為をしたと言われるならば、私は悪魔の超能力を持っているのでしょうか」と裁判官に訴えた。
著書に『犯罪被害者の心に傷』がある小西聖子武蔵野大教授(被害者学)はこう指摘する。
「牧師は親と同じぐらいの信頼に値する存在。そういう人から虐待され、自分が悪いと思い込まされるような状況では、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を含む深刻な心の傷を負いやすい」 さらに、教会を統括する教団の対応が、被害者の苦しみに追い打ちをかける。

◆日本聖公会には、教会を自治している「教区」が全国に11ある。アケミさんの教会を包括する京都教区は、虐待が発覚した直後、牧師を退職処分にすることを決めた。
しかし、牧師が否認に転じて退職を拒否すると、退職処分を取り消し、教区ナンバー2の役職や、神学校の教授、幼稚園の園長などを続けることも認めた。
京都教区はさらに、牧師側敗訴という大阪高裁の判決が確定した後にも、「判決については驚いているし、裁判には憤慨している」という、牧師側に立ったコメントを出した。
高地敬主教は言う。「一生懸命仕事をする牧師だったので信頼していた。キリスト教の聖職なら、裁判所が認定したようなことをするはずがないとも思った。当時は被害者がウソを言っていると思っていた」
アケミさんは、教区のコメントが出たころの心境を、次のようにノートにつづった。
「うそをつく人間だと、私の人間性を否定された。人としての尊厳を傷つけられたまま、生きることはできない」 性的被害があったとき、司祭を擁護しがちなのは教団だけではない。
一般信者も、反射的に司祭の肩を持つ傾向が強い。

◆サナエさん(仮名)は、勤務していた日本基督教団熊本白川教会(熊本市)の牧師の言動に耐えかね、周囲への訴えも効果なく退職した。
さらに被害者が増えかねないと思い、提訴に踏み切った。
 裁判では、牧師が2年以上にわたって礼拝堂でサナエさんの胸をひじで触ったり、太ももに手を当てたりしたことが何度もあったことが認められた。
 判決はさらに、▽牧師館に相談に訪れたら、牧師に「カーテンを閉めたらここでしてもいいね」「あーもう我慢できない」などと言われた ▽礼拝に行ったら、牧師にドライブに誘われ、関係を求められたうえ、「墓場まで持っていく」という言葉で口止めされたーなど、他の女性6人の事情聴取を信用できると判断し、こう述べた。「(牧師の)性的な面での節度のなさという行動性向はもはや歴然だ」 判決は1、二審ともサナエさんが勝訴、05年4月に確定した。 それから3年。熊本白川教会では、今も同じ牧師が教会で礼拝を続けている。
本人に見解をただすと、「教会の95%の人は、私がセクハラをする人間ではないとわかっているからです」といたうえで、こう言った。
「裁判の結果よりも、現場にいる人(信者)が出した答えが事実になる」 法をどう理解しているのだろう。
この牧師は、自分を陥れようとする伝道師の一人が仕組んだ「でっち上げだ」とも言った。
 日本基督教団では、牧師の人事は各教会が決めることになっている。
教会の信者たちでつくる幹事会が、牧師を招聘したり解任したりする。熊本白川教会の幹事会トップは言う。
 「(セクハラは)100%なかったと思っている。牧師の仕事は24時間だから、そんなことをする時間はありません」 幹事長はそう言うと、「クーデター」という言葉を使いながら、やはり伝道師による「でっち上げ」説を口にした。
裁判についても、「教会生活をする私たちの声がまったく受け止められていない」と言い、女性6人の事情聴取の中身に関しても、「絶対にうそだ」と話した。
 一方、牧師の辞任を求める信者の一人の元幹事によれば、「神様に遣わされた」牧師に異を唱えるのは教会内では少数派で、その少数派は別の教会で礼拝せざるを得ない状況だという。
「ただ、本当に牧師を信じている人は少ないのではないか。牧師はとにかく守らなくてはならないという意識が、教会としての対応を誤らせている」

◆キリスト教年鑑(08年版)によると、日本のキリスト教教会人口は、総人口の0,9%程度。プロテスタントは計約62万人で、うち、最大規模の日本キリスト教団が約19万人、日本聖公会は約5万5千人、日本ホーリネス教団が約1万3千人。カトリックは約48万人だ。
信者は決して多くないなかで、キリスト教会が国内で存在感と影響力を保っているのは、欧米の高級文化というイメージによるところが大きい、と櫻井義秀北海道大大学院教授(宗教社会学)は話す。
「日本ではかつての上流階層や知識人がまずキリスト教を取り入れ、キリスト教精神の病院や学校など社会事業を展開してきた。
その流れがいまも引き継がれているので、教団は社会的に高く評価されて当然という意識がある」 だから、性的虐待やセクハラといった問題は、神聖で高潔な教会ではあり得ないこととして扱う。
もし発生しても、判決が出ても、簡単には事実を認めない。 単なるスキャンダルに矮小化する。
そんな傾向に対し、櫻井教授はこう話す。「本来なら、防止や対応の体制整備や聖職者たちを対象にした研修、問題を起こした聖職者を排除する仕組みなど、構造的な不備を改めないといけない。性的な問題は教会では起きてはならないという考えではなく、起こり得るという意識が必要だ」

◆カトリック系も同じだ。 米国では02年、新聞報道をきっかけに、カトリック教会の司祭らによる教会施設内での児童への性的虐待が次々と明るみに出た。加害司祭は1千人以上、被害者は4千人以上ともされ、ボストン大司教の枢機卿をはじめ、200人以上の司祭が解任された。
これを受け、日本のカトリック中央協議会も各教区に報告を求めたところ、米国と同様の児童への性的虐待が過去に数件あったことが判明した。
 中央協議会が04年10月、一般信者らを対象にセクハラに関するアンケートを実施したら、50~70代の女性を中心に110件の回答が寄せられ、教会内でのセクハラが長年にわたって存在してきたことが浮かび上がった。
神父が女性信者の自宅に押し入り性交を強要した、といった犯罪性の高い事案もあったという。
 日本カトリック正義と平和協議会会長の松浦悟郎大阪大司教区補佐司教は言う。
「祈りのためにひざまずいた女性の頭が神父の股間にわざと触れるようにするなど、祈りの行為や神父の尊厳を利用したケースもあった。これは最も許されない」 こう見ると、キリスト教の司祭は神と信者を結ぶ「高潔な人物」という見方は、必ずしもあたらないことがわかる。

◆だから、今回取り上げた教団は、少しずつ「対策」を講じざるをえなかったようだ。
 虐待の現場となった教会を持つ日本基督教団九州教区や日本聖公会京都教区は、セクハラ防止のための指針を定め、相談窓口や調査委員会などを置いた。
日本ホーリネス教団やカトリック中央協議会も、セクハラの訴えに対応するスタッフを任命している。
 ただ、裁判などのかたちで表面化したことがない教区などでは何の対策もしていないところもあるという。

裁判所で虐待事実を認定された司祭本人は、どう被害者に謝罪したのだろうか。
日本聖公会高田基督教会で事件を起こした牧師は、最高裁まで争って敗れた後、05年9月に依願退職した。
本誌が自宅を訪ねると、「もう見解の相違でけんかしたくない。話したくない」 と話すが、現在も性的虐待の事実は認めていない。
 日本ホーリネス教団平塚教会の牧師は、教団を除名となった。
しかし、妻が経営する無認可保育施設で働いている。
裁判終結から4年半後には、広島の知人の教会で「あなたの罪赦された」と題し、涙ながらに、「私の罪は赦されて、もう一度立つことが出来る。そういう確信をいただいている」 と宣言。
現在、毎週日曜日に、勤務する保育施設を教会がわりに、説教をし、賛美歌を歌っている。
 一方で、遺族が求めているカオリさんの遺骨の前での謝罪は拒絶したままだ。
「強姦ではなく和姦だった」 と裁判で主張したことは、姦淫が禁じられた牧師の立場と矛盾する。
日曜日の礼拝前に元牧師を訪ねると、職業を牧師だと答えたうえで、「何も話すことはありません」と述べた。
熊本の牧師は、教団本部の処分や九州教区の辞職勧告を気にしている様子はなかった。
判決についても、こう話した。 「裁判官は相手方の作文を信じたんでしょう」 虐待された側はどうか。
アケミさんは父親が取材に応じ、「まだ話せる状態ではない。男性不信は根深い」と答えた。
 サナエさんも、精神的被害のため、多くを家の中だけで過ごさざるを得ない日がいまもあるという。 

福音はとどいていますか12

「行為は、いくら不満でも、もはや消すことはできません。逆にそれが私だと説得してきます」(藤木正三)1-33行為

・いろいろな選択をして毎日生きています。右へ行くのか左へ行くのか、前か後ろか。判断がつきかねる状況の中で選択を一応しながらいます。後から後悔することもあるでしょう。でも、そう選択した自分がいたこともすぐれて私自身なのです。

玉音放送

Web上の「JanJan」ではカットしていない玉音放送を聴けます(17:39)。

日本放送協会の和田信賢放送員によるアナウンスが先ずあり、聴衆に起立を求めた。続いて下村宏情報局総裁が天皇自らの勅語朗読である事を説明し、君が代の演奏。その後4分余りの勅語朗読が放送され、再度君が代の演奏。続いて「終戦の詔書をうけての内閣告諭」等の補足的文書のアナウンスが行われた。

〔玉音放送 ノーカット版〕

貴重な音源ですよ。オリンピックで流れる君が代とは違った雰囲気だよ。( ..)φメモメモ


■15日正午の放送内容

・正午の時報
・「只今より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様御起立願います」(和田信賢アナウンサー)
・「天皇陛下におかれましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給う事になりました。これよりつつしみて・玉音をお送り申します」(下村情報局総裁)
・君が代奏楽
・詔書(天皇陛下・録音盤再生)
・君が代奏楽
・「謹みて天皇陛下の玉音放送を終わります」(下村情報局総裁)(以下は和田信賢アナウンサーによる放送)
・「謹んで詔書を奉読いします」
・終戦詔書の奉読(玉音放送と同内容)
・「謹んで詔書の奉読を終わります」


<原文>

終戦の詔勅

 朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲に忠良なる爾臣民に告ぐ。

朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し、其の共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。

抑々、帝国臣民の康寧を図り万邦共栄の楽を偕にするは、皇祖皇宗の遺範にして朕の拳々措かざる所、曩に米英二国に宣戦せる所以も、亦実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出て他国の主権を排し、領土を侵すが如きは固より朕が志にあらず。然るに交戦已に四歳を閲し朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公各々最善を尽くせるに拘らず、戦局必ずしも好転せず。世界の大勢、亦我に利あらず、加之敵は新に残虐なる爆弾を使用して頻りに無辜を殺傷し惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。而も尚、交戦を継続せむか、終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。斯の如くむば、朕何を以てか億兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に謝せむや。是れ、朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり。

 朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉し、非命に斃れたる者、及び其の遺族に想を致せば五内為に裂く。且、戦傷を負ひ、災禍を蒙り家業を失ひたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念する所なり。惟ふに今後、帝国の受くべき苦難は固より尋常にあらず。爾臣民の衷情も、朕善く之を知る。然れども、朕は時運の趨く所、堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ、以て万世の為に太平を開かむと欲す。

 朕は茲に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民と共に在り。若し夫れ、情の激する所、濫に事端を滋くし、或は同胞排擠互に時局を乱り為に大道を誤り、信義を世界に失ふが如きは、朕最も之を戒む。宜しく挙国一家子孫相伝へ、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念ひ、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし志操を鞏くし誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらむことを期すべし。爾臣民其れ克く朕が意を体せよ。

御名御璽
昭和二十年八月十四日

<現代語訳文> 現代語訳 太田一水

 私は深く世界の大勢と日本の現状について考え、非常の手段によってこの事態を収拾しようと思い、忠義で善良なあなた方臣民に告げる。 私は帝国政府に米国、英国、中国、ソ連に対してポツダム宣言を受け入れることを通告せしめた。そもそも日本国民の安全を確保し世界の国々と共に栄えその喜びを共にすることは、私の祖先から行ってきたことであって私もそのように努めてきた。先に、米国・英国二国に宣戦を布告したのも、我が帝国の自立と東亜の安定を願ってのものであって、他国の主権を侵害したり、領土を侵犯したりするようなことは、もちろん私の意志ではない。しかしながら、戦闘状態はすでに四年を越え、私の陸海将兵の勇敢な戦闘や、私の官僚・公務員たちの勤勉なはたらき、私の一億国民の努力、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦争における状況はよくならず、世界の情勢も我々には不利に働いている。それだけではない。敵は、新たに残虐な爆弾を使用して、何の罪もない多くの非戦闘員を殺傷し、その被害はまったく図り知れない。それでもなお戦争を継続すれば、最終的には日本民族の滅亡を招き、そして人類文明おも破壊することになってしまうだろう。そのような事態になったとしたら、私はどうしてわが子とも言える多くの国民を保ち、先祖の霊に謝罪することができようか。これこそが政府にポツダム宣言に応じるようにさせた理由である。

 私は日本とともに終始東亜の植民地解放に協力した友好国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。帝国臣民にして戦場で没し、職場で殉職し、悲惨な最期を遂げた者、またその遺族のことを考えると体中が引き裂かれる思いがする。さらに戦場で負傷し、戦禍にあい、家や職場を失った者の厚生については、私が深く心配するところである。思うに、これから日本の受けるであろう苦難は、大変なものになる。国民たちの負けたくないという気持ちも私はよく知っている。しかし、私はこれから耐え難いことを耐え、忍び難いことを忍んで将来のために平和を実現しようと思う。

 私は、ここにこうして国体を守り、忠義で善良なあなた方臣民の真心を信頼し、そして、いつもあなた方臣民とともにある。もし、感情的になって争い事をしたり、同胞同士がいがみあって、国家を混乱におちいらせて世界から信用を失うようなことを私は強く懸念している。 国を挙げて一つの家族のように団結し、子孫ともども固く神国日本の不滅を信じ、道は遠く責任は重大であることを自覚し、総力を将来の建設のために傾け、道義心と志操を固く持ち、日本の栄光を再び輝かせるよう、世界の動きに遅れないように努めなさい。あなた方臣民は私の気持ちを理解しそのようにしてほしい。

 天皇の署名と印璽
 昭和二十年八月十四日

<読み下し文>

朕(ちん)深く世界の大勢(たいせい)と帝国の現状とに鑑(かんが)み非常の措置(そち)を以(もっ)て時局(じきょく)を収拾(しゅうしゅう)せんと欲(ほっ)し茲(ここ)に忠良なる爾(なんぢ)臣民(しんみん)に告(つ)ぐ

朕(ちん)は帝国政府をして米英支蘇(べい、えい、し、そ)四国(しこく)に対し其(そ)の共同宣言を受諾(じゅだく)する旨(むね)通告(つうこく)せしめたり

抑々(そもそも)帝国臣民(しんみん)の康寧(こうねい)を図(はか)り万邦共榮(ばんぽうきょうえい)の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは皇祖皇宗(こうそそうそう)の遺範(いはん)にして朕(ちん)の拳々(けんけん)措(お)かさる所(ところ)

曩(さき)に米英二国に宣戦(せんせん)せる所以(ゆえん)も亦(また)実に帝国の自存(じそん)と東亞(とうあ)の安定とを庶幾(しょき)するに出(いで)て他国の主権を排(はい)し領土を侵(おか)すが如(ごと)きは固(もと)より朕(ちん)が志(こころざし)にあらす

然(しか)るに交戦(こうせん)己(すで)に四歳(しさい)を閲(けみ)し朕(ちん)が陸海(りくかい)將兵(しょうへい)の勇戦(ゆうせん)朕(ちん)が百僚(ひゃくりょう)有司(ゆうし)の励精(れいせい)朕(ちん)が一億衆庶(しゅうしょ)の奉公(ほうこう)各々(おのおの)最善(さいぜん)を尽(つく)せるに拘(かかわ)らず戦局必すしも好転せず世界の大勢亦(また)我(われ)に利(り)あらず

加之(しかのみならず)敵は新(あらた)に残虐(ざんぎゃく)なる爆弾を使用して頻(しきり)に無辜(むこ)を殺傷(さっしょう)し惨害(さんがい)の及(およ)ぶ所(ところ)眞(しん)に測(はか)るべからざるに至(いた)る

而(しか)も尚(なお)交戦(こうせん)を継続せんか 終(つい)に我が民族の滅亡(めつぼう)を招來(しょうらい)するのみならず延(のべ)て人類の文明をも破却(はきゃく)すべし

斯(かく)の如(ごと)くは朕(ちん)何(なに)を以(もっ)てか億兆(おくちょう)の赤子(せきし)を保(ほ)し皇祖皇宗(こうそこうそう)の神霊(しんれい)に謝(しゃ)せんや 是(こ)れ朕(ちん)が帝国政府をして共同宣言に応(おう)せしむるに至(いた)れる所以(ゆえん)なり

朕(ちん)は帝国と共に終始(しゅうし)東亞(とうあ)の解放に協力せる諸盟邦(しょめいほう)に対し遺憾(いかん)の意を表(ひょう)せざるを得(え)ず

帝国臣民(しんみん)にして戰陣(せんじん)に死し職域(しょくいき)に殉(じゅん)じ非命(ひめい)に斃(たお)れたる者及(および)其(そ)の遺族(いぞく)に想(おもい)を致(いた)せは五内(ごない)爲(ため)に裂(さ)く

且(かつ)戦傷(せんしょう)を負(お)ひ災禍(さいか)を蒙(こうむ)り家業(かぎょう)を失いたる者の厚生(こうせい)に至(いた)りては朕(ちん)の深く軫念(しんねん)する所(ところ)なり

惟(おも)うに今後帝国の受(う)くべき苦難(くなん)は固(もと)より尋常(じんじょう)にあらず

爾(なんじ)臣民(しんみん)の衷情(ちゅうじょう)も朕(ちん)善(よ)之(これ)を知る

然(しか)れども朕(ちん)は時運(じうん)の趨(おもむ)く所(ところ)堪(た)え難(がた)きを堪(た)え忍(しの)び難(かた)きを忍(しの)び以(もっ)て万世(ばんせい)の爲(ため)に太平(たいへい)を開(ひら)かんと欲(ほっ)す

朕(ちん)は茲(ここ)に国体を護持(ごじ)し得(え)て忠良なる爾(なんじ)臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんき)し常(つね)に爾(なんじ)臣民(しんみん)と共(とも)に在(あ)り

若(も)し夫(そ)れ情(じょう)の激(げき)する所(ところ)濫(みだり)に事端(じたん)を滋(しげ)くし或(あるい)は同胞(どうほう)排擠(はいせい)互(たがい)に時局(じきょく)を亂(みだ)り爲(ため)に大道(だいどう)を誤(あや)り信義(しんぎ)を世界に失(うしな)ふか如(ごと)きは朕(ちん)最(もっとも)も之(これ)を戒(いまし)む

宜(よろ)しく挙國(きょこく)一家(いっか)子孫(しそん)相(あい)傳(つた)え確(かた)く神州(しんしゅう)の不滅(ふめつ)を信(しん)じ任(にん)重くして道(みち)遠きを念(おも)い総力を將來(しょうらい)の建設に傾け道義を篤くし志操(しそう)を鞏(かた)くし誓(ちかっ)て国体の精華(せいか)を発揚(はつよう)し世界の進運(しんうん)に後れさらんことを期(き)すべし爾(なんじ)臣民(しんみん)其(そ)れ克(よ)く朕(ちん)が意(い)を體(たい)せよ

御名御璽(ぎょめいぎょじ)
昭和二十年八月十四日

難度海9

   こころの蛇

世の中を
あたまさげて
通りたいと願いながら
私のこころの蛇は
またしても鎌首をもたげる

・私のこころは鎌首をもたげる。
にょっとして這う蛇は古今東西嫌われモノの代表。
聖書では最初の人間を騙して、神から離反させたモノとされている。
ただ、人間に巣食う欲望の象徴として捉えると分かりやすい。
鎌首をもたげるのは、遠くを見通すためだろう。
蛇の自分という自覚。

003 ”たった15分”の法則で生活に余裕が生まれる

朝、自分に15分の余裕をあげよう。
数秒をケチるせわしない人と、数秒を他人に譲れる人の違いは、1日当たり10分というところだろう。

・朝、15分早く自宅を出る。赤信号をきちんと守る。余裕をもって運転する。他人に道を譲る等々…。
こうした積み重ねをしても15分使うのは意外と大変だよ。こうした生活が余裕を生むんだね。

心の泉7

「修道院と同様に市場は、静寂を得るのにふさわしいところ。静寂とは、自我の不在であるから」(アントニー・デ・メロ)1-400

The market is as good a place for silence as the monastery, for silence is the absence of the ego.

・あなたにとって静寂に浸れる場所はどこにあるのか。

心の泉6

「生き生きと生きるためには、時間の浪費の恐ろしさを学ぶべきだ」(アントニー・デ・メロ)1-400

To become creative learn theart of wasting time.

・時間の浪費とは、毎日をただ自分を装うことに生きていることだろう。
今日一日に、何をするのかをもう一度自問してみよう。

002 心の底からの本当の望みごとは、きっとかなうものだ

何が自分にとって、心のいちばんそこにある望みなのか?
そんな本当の望みを見つけることは、とても大切なことだ。

「私は自分に、心から魂が欲している望みを願うと、ほとんどがその望みどおりになるんだ…」(ルービンシュタイン)

・私利私欲を離れて、あなたの望むこと知りなさい。
それを熱望していれば、きっとかなうものだ。

ルカによる福音書 11章9-13 「聖書 新共同訳」より

 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。
 探しなさい。そうすれば、見つかる。

 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
 
 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者は開かれる。
 
 あなたがたの中に魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
 また卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
 
 このように、あなたがた悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与える
 ことを知っている。

 まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。

福音はとどいていますか11

「お互い間違いながら生きているのです。いちいち間違いを取り上げて教えるよりは、それを忍ぶものとなるように自分をこそ教えたいものです」(藤木正三)1-32教える者から忍ぶ者へ

・お節介とは何でしょうか。自分の考えに相手を従わせて満足しようという心だと藤木師は語ります。人間の違いが、文化を生み発展させてきました。お互いが違うことはよいことです。共通点が大きいのですから、それを推し量って考えれば人間の心理は分かります。

プチ修行

たれプーさん♪冬は冬眠します。毎日寝ます。秋になると動きが悪くなります。ブログもお休みになるかもね。せっせとブログを書きためておかないと大変だ。
プチ修行なることばの解説をNHKラジオ深夜便でしていた。昨今の修行ブームがあるそうだ。座禅・写経などを若い女性たちがするみたい。どうも暇と金を持て余した人たちの余技みたいな雰囲気であるが、究極的人生態度とは微塵も関係ないと思う。近頃のスピリチュアルブームの延長線かな。そんなところに宗教生活の復活はありえないと思うけどね。

福音はとどいていますか10

「厚い信仰は神に力を期待しません、平安を期待します」(藤木正三)1-31信仰の薄さ、厚さ

・自分の願いの成就のために神の力を利用しようとする思いがあると藤木師は語ります。既に用意されているものを喜びなさいと。この勘違いで神を見失う人のなんと多いことか。あなたの思い通りになる神は、あなたの作った神の姿に他なりません。
信仰があるとかないとは何か。神を利用しようとする人は思い違いをするみたいです。自分の願いと神の思いを混同すること。神があれば自分自身はもうそれでよいんじゃありませんか。

江戸時代の宗教書を北京で発見 「金言集」、重文級の価値

江戸時代の宗教書を北京で発見 「金言集」、重文級の価値
2009/11/14  共同通信

 安土桃山から江戸時代初期にかけて布教などの目的で印刷された「キリシタン版」と呼ばれる書籍の一つで、長崎で刊行された宗教書「金言集」が北京の国家図書館に保管されていることが14日、東京都の古書店・雄松堂の調査で分かった。

 写真データで鑑定した上智学院理事長の高祖敏明・上智大教授(比較教育史)は「発見は絶望的といわれていた文献で希少だ。重要文化財級の価値がある」としており、中世から近世初期の宗教史、外交史の解明に大きな前進をもたらす貴重な発見といえそうだ。

 高祖教授によると、金言集はポルトガル人神父が書いた宗教書で、信者が殺人を犯した場合にどう対応すべきかなど、日本で活動する司祭に具体的な助言を与える内容。イエズス会が持ち込んだ金属活字の印刷機を用いて刊行された。

 金言集は1930年代に北京の教会に併設された図書館で確認されたが、その後、行方不明になっていた。今年3月、調査のため同図書館を訪れた雄松堂の新田満夫会長が「善本部」と呼ばれる保管室で同書を発見、約70年前の写真と同一であることが判明した。

 金言集が中国に渡った経緯は不明。日中戦争や文化大革命の混乱があったため紛失したとみられていた。


・重要文化財扱いになるほどの貴重な文献みたい。キリスト教が日本に伝わった頃の資料として価値がある。イエズス会の目的は、布教と経済交流の活発化であったと思う。欧米列強の海外進出には覇権の意味合いが強い。

奇跡の言葉38

「トーマス・マートンは言う。『沈黙から生まれるこの力を神が体験させてくださいますように。この体験をいただくと、ほどなくある甘美さが心のなかに生まれ、体は沈黙へ留め置かれるのを感じるだろう』」(アントニー・デ・メロ)2-69

・沈黙とは、こころの静まった状態とも言える。自分のことで一杯のあたまを、ちょっと別のところに置き真っさらにしてみる。こころを落ち着けると見えなかったものが、聞こえなかったものが分かってくる。考えるというよりは感じるということだろう。沈黙の力により、あなたはホントの自分を知ることができるし同時に神を発見するだろう。


**だいじなことは 目に見えないんだよ。(サン・テグジュペリ)

・その通り!

難度海8

   無量寿

年とるにつれ
弱るにつれ
尽きぬいのちが
私の底から涌いているのを
いつしか拝むようになり

・私の底から湧いてくる、いのち尽きせず
私から尽きせぬ、いのちの水を飲みなさいとイエスも言われた。
いのちは無量です
貯めることも必要ない、いのちに今日も生かされている、この私。

バチカン、大気圏外に知的生物存在の可能性認める

バチカン、大気圏外に知的生物存在の可能性認める
2009年11月16日 christiantoday

 【CJC=東京】バチカン(ローマ教皇庁)が天文学、物理学、生物学の専門家をカトリック信徒以外からも含めて30人を招き5日間にわたり会議を行った。バチカン天文台の責任者ホセ・ガブリエル・フネス神父(イエズス会)が司会進行を務めた。

 会議の運営関係者の1人、米アリゾナ大学のクリス・インピー教授(天文学)は、会議の狙いを、宇宙における生命の研究という天文学の急成長分野における最近の研究を評価すること、と語った。

 会議では大気圏外に知的生物が存在する可能性を認めた。ガリレオ・ガリレイが天動説に挑戦したことを理由に異端審問に掛けられてから4世紀を経過している。カトリック教会の見解は、1600年に、他にも生物が存在することを予測したのを異端だとして哲学者ジョルダーノ・ブルノが火刑に処せられてから、急激に変化した。

 バチカン天文台は、宗教と科学の間の溝を埋める努力の最前線に立ってきた。今日ではビッグバン理論や進化論のような科学的構想を、長老格の聖職者も公然支持するようになっている。

 元司祭で歴史学者のポール・コリンズ氏は、エイリアンも、人は神に似せて作られたという信仰と両立することに何の問題もない、と語った。「全ての被造物は善と神の創造とを反映している。人類とは、私たちがもっとも充足して、完全に代表しているものであることを議論している。しかし全て創造は神が創造者であることを示している。だから地球外の生物も、人類以上に発達しているにせよ、そうでないにせよ、創造を示している」と言う。


・なんかトンデモ発言みたいな感じ。エイリアンまで創造を示すのか。UFOやミステリーサークル、アブダクション、秘密協定などいろいろあるよ。知的生命体の存在を示す証拠は今のところ発表されていない。結局、どれほど科学に立脚するのかだろう。

聖骸布にキリストの名前 歴史研究家が発見と発表

聖骸布にキリストの名前 歴史研究家が発見と発表
2009.11.21 産経ニュース

 ローマ法王庁(バチカン)の歴史研究家バルバラ・フラーレさんは、キリストの遺体を包んだ亜麻布と信じられている「トリノの聖骸布(せいがいふ)」から、キリストの名前や「処刑された」と書かれた文字を発見したと発表した。20日付のイタリア紙レプブリカなどが伝えた。
 同国北部トリノの大聖堂に保管されている聖骸布をめぐっては、中世以降の偽物との説もあり論争が続いている。フラーレさんは今回の発見で、本物である可能性が強まったと指摘した。
 聖骸布にはやせた男性の全身像の影が写っており、文字は顔の周辺で見つかった。非常に薄かったため、コンピューターの画像処理で、くっきりと浮かび上がらせた。その結果、キリストの生きていた当時、使われていたアラム語やギリシャ語、ラテン語で、処刑が行われたことを示す文字やキリストの呼び名だった「ナザレのイエス」の文字が見つかった。(共同)
 
トリノの聖骸布(せいがいふ) 
処刑されたイエス・キリストの遺体を包んだと言い伝えられる亜麻布。長さ4・4メートル、幅1・2メートルで、男の人影が写っている。14世紀に十字軍によって中東からフランスに持ち帰られたといわれ、後のイタリア王家が入手、最後の国王ウンベルト2世の遺言で1983年、ローマ法王に献上された。現在は、トリノのサンジョバンニ大聖堂で保管されている。88年の調査では、13~14世紀の物と鑑定されたが、異論も多い。


・この件に関しては異論が多いと思う。

過去にも科学的調査と称して研究がされている。バチカンの行う科学調査って、聖人・福者を決める調査くらいトンデモ世界に入る。基本的に科学的知見は冷たい対応しかしないけど、こうした教理擁護のものには積極姿勢だ。

福音はとどいていますか9

「自己主張をするということが積極的な生き方として、不当に高く評価され出して久しくなります。そして、清さが生きる上での真剣な課題にならなくなって、これ又久しくなります」(藤木正三)1-30自己主張

・日本人の文化は惻隠のこころです。それも廃れて自己主張する術を、例えば心理学の応用、学ぶことに忙しくなりました。自己主張をすることが悪いわけではありません。ただ、自分が間違いないという思い込みだけはしたくないものです。一時期、議論に勝つことを目的としてディベイトが流行ました。論理で相手をねじ込む。人間を知らない人のすることです。

001 毎朝3つの質問を自分にすれば勇気がわいてくる

1.自分の人生のおいて、良いところはなんだろう?
2.自分が幸せだと思えることはなんだろう?
3.自分が感謝できることはなんだろう?
  (by ヘンリー・デビット・ソロー)

人はたとえどんな状況にあろうとも、少しでも感謝できることを見つけることができるものなのだ。
ありがたいと思う感覚は、困難をはね返す力と生きる勇気を増大させてくれる。

・感謝不足なのが現代。お金があれば何でもできることは事実かもしれない。ただ、お金の先にあるものを考えると人間のつながり、動植物との共存、自然のことを考えることになる。以前、バナナのことから経済を考えることが流行った。大手資本によるプランテーション農業、現地の貧困と搾取。さて、ほんとに感謝ができれば毎日の生き方が変わることは間違いないこと。

【引用】ヴェルナー・ティキ・キュステンマッハー、マリオン・キュステンマッハー/原 知里訳『シンプル・シンキング 単純に生きる100のヒント』(日本文芸社、2003)

心の泉5

「精いっぱいに生きる日がもう一日与えられているとは、なんと幸せなことだろう」(アントニー・デ・メロ)1-400

I am fortunate indeed !  I have been granted the wealth of another day of life.

・目が覚めると自動的に一日が始まります。そして目を閉じると一日が終わります。人間はそれを繰り返して生きています。そのなかで生きることが当たり前になると日々が虚しくなります。同じ繰り返しに意味があるのだろうか、今日も同じことばかり…。でも、今日という日は二度とないのも事実です。昨日と全く同じということはありますまい。もう一日精いっぱいに咲きましょう。もう一日という発想が大切だね。

難度海7

   きょうの花

同じように見えるが
きょう咲いた花は
きのう咲いた花と
同じでない

・同じように見えるが今日のわたしは、昨日のわたしと同じではない。
今日の花を大切にしよう。日々新たに!

奇跡の言葉37

「トーマス・マートンは言う。『人は皆、言葉に埋もれているのがうれしいのであり、口ではすばらしいことを言うが、その実、空っぽである。真理を愛そうとするなら、沈黙を愛しなさい。そうすれば言葉では摘みきれないところを実感できよう』」(アントニー・デ・メロ)2-68

・ことばは概念であり、割り切り、決めつけ、頭脳停止をもたらす。一方、感じることは、直感であり、丸ごと、連続、沈黙をもたらす。デ・メロ師は、ことばの限界というものを考えている。聖書のことばが人を活かすものであるならば、行間を読むことであり書かれていない神の意志を感ずることだろう。


**恋の苦しみは、どんなほかの喜びより ずっと愉しい。(ドゥイデン)

・古今東西、恋は思い込み

難度海6

   底

いくら落ちこんでも
ここには少し
光がさしてくる

・人生の底に落ち絶望しているという人がいます。生きていても仕方ない、二度と幸せな思いを得られないと感じています。榎本師は、ご自分の体験からでしょうか、そのような闇の世界にも一条の光があると感じています。確かに苦しくはありますが、悩んでいる自分はすでに生かされていると気づいたときに勇気が生まれるものです。

心の泉4

「名誉と賞賛に心を奪われるなら、心の自由を失うだろう」(アントニー・デ・メロ)1-400

Assent to honour and acclaim and you will lose your freedom.

・大切なことは心を奪われないこと、そこで立ち止まってしまわないこと、自足してしまわないこと。心の自由がもっとも大切なメダルである。

福音はとどいていますか8

「人はどこから来てどこへ行くのか、その不思議さを思いつつ、生かされてあるものらしく生きるなら、たとえ神に就て知るところが何もなくても、人は十分に神を知っているといってよいのです」(藤木正三)1-29神を知る

・神を知っていると公言していた宗教指導者たちが実は何も知らなかったというのがイエスの言動です。神をじかに知ることが大切なのであって、観念で捉えていても救いには繋がりますまい。摩訶不思議な被造物であるヒトとして在ること。生ある限り生き続けることが求められます。

東京物語

久しぶりに東京物語を見ました。普遍的なテーマ、親子の情、独立をめぐる物語。

尾道、東京が舞台。ローアングルから撮られ、カット割がとても丁寧である。

東山千栄子演ずる母親の最期に、電報が使われている。「ハハ、キトク」の香川京子からの電報。いまなら携帯かな。キトクって最近聞かない言葉、大往生ができた時代のことばである。
原節子は戦争で亡くなった次男の未亡人役、こんな戦災未亡人いたら直ぐに…。いい役してます。
杉村春子の長女、山村聡の長男も親から独立し大都会東京で懸命に生きている様が見事に脚色されています。いまは笠、東山の父親母親から完全に独立して、それぞれ開業医、美容院を経営する身分です。
笠の郷里の知り合いに東野英次郎が出演し、お酒飲むシーンを笠と競演しており見所となっています。東京へ行き息子娘たちの独立を見届けながら、親業を終えた老夫婦の日常が丹念に描かれています。また東山亡きあとの笠の悲哀も見てとれます。

あったかいことば、ほんの数十年まで日本人が口にしていた丁寧な人間関係が羨ましいと思いました。濃密な人間関係という形容よりも、淡々とした人生という感じがします。なぜ懐かしい思いがするのでしょうか。ふと時間を遡り過去に生きることがあります。
「東京物語」(松竹映画、昭和28年制作)

・<映画ベスト10>1位に東京物語、ゴッドファーザー
 2009年11月21日 毎日.JP

 キネマ旬報社は20日、雑誌「キネマ旬報」創刊90周年(1919年創刊)を記念して「日本映画・外国映画オールタイム・ベスト・テン」を発表した。映画評論家や作家、文化人の投票を集計した。

 日本映画の1位は、小津安二郎監督の代表作「東京物語」(1953年公開)。独立した子供たちの家を訪れるため上京した老夫婦(笠智衆、東山千栄子)を通して、変わりゆく日本の家族を描いた。
 外国映画1位はフランシス・フォード・コッポラ監督がマフィアの抗争を描いた「ゴッドファーザー」(1972年公開)。マーロン・ブランド、アル・パチーノらが出演し、ニーノ・ロータ作曲のテーマ曲「愛のテーマ」もよく知られている。ベスト10と順位は次の通り。
 
<日本映画>
 (1)東京物語(2)七人の侍(3)浮雲(4)幕末太陽傳(5)仁義なき戦い(6)二十四の瞳(7)羅生門、丹下左膳餘話 百萬兩の壺、太陽を盗んだ男(10)家族ゲーム、野良犬、台風クラブ

<外国映画>
 (1)ゴッドファーザー(2)タクシー・ドライバー、ウエスト・サイド物語(4)第三の男(5)勝手にしやがれ、ワイルドバンチ(7)2001年宇宙の旅(8)ローマの休日、ブレードランナー(10)駅馬車、天井棧敷の人々、道、めまい、アラビアのロレンス、暗殺の森、地獄の黙示録、エル・スール、グラン・トリノ

難度海5

   仏の道

ふみはずしましたが
気がつけば
ここも仏の道でございました

・道を歩む。日本人は「道」が好きだ。書道、華道、茶道、柔道、剣道…。
宗教的態度で臨む道筋があり、間違っていても既に神・仏の手のひらの中なのです。

福音はとどいていますか7

「人の罪より自分の罪の方が大きいと思うに至った時は、私たちは罪そのものを見ています。そして、神の前に立っています」(藤木正三)1-28神の前

・人の罪を見て、自分自身の足りなさを反省する。さらに自分の罪の方が大きいと思うに至るならば、大きな気づきを得ることになります。神の前に立つとは、被造物としての自覚、すなわち自分の我を押さえる態度ではないでしょうか。
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