洗脳体験をナラティヴに35

「見てしまったからには、わたしは以前と同じではない。どんな公式も、それがどれほど神聖であったとしても、価値がないと知り、飛び上るほどの自由ととてつもない確信を感じるだろう。それから、いのちの過程と動き全体を日々新たに観察し、理解しながら、学びは一生続く。すべてがわたしの先生となる」(アントニー・デ・メロ)3-93

† この後段の文章がとても素敵である。すべてがわたしの先生となるのだ。他人も自然も、良いことも悪いことも、楽しいことも嬉しいことも・・・。もっとも大事なことは、気づきが起こると、以前と同じではなくなるのだ。

‡ 宗教の核心が気づきである。その点を指摘している宗教家は滅多にいない。あれこれする、しないと言った倫理・道徳を説く人たちが多い。それらは長年の人類の叡智であるにしても死んだ公式に過ぎない。今、目の前で起きていることから全てを学ぶことができるのだ。
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洗脳体験をナラティヴに34

「また、だれかがわたしの見たことの意味を説明しようとする。わたしは、また首を横に振る。意味は公式だから。概念に組みこまれて思考に訴えるものである。わたしが見たことはあらゆる公式、あらゆる意味を超えている。そして、不思議な変化がわたしの内に起きてくる」(アントニー・デ・メロ)3-93

† 意味付けは後から起こってくる。その時には多くのものが失われしまっている。また言語で意味づける限界が押し寄せてくるだろう。あの感動は、伝えられないと思ってことはないだろうか。

‡ そして、わたしが感得したことは、あらゆる意味を超えてしまっているのだ。それは生きることに意味を感じることとも同じで、生きることは生きる意味を超えているのだ。美味しいラーメンを食べていることと、その様子をテレビ番組で見ているほどの違いがある。

洗脳体験をナラティヴに33

「何を見るのだろう。何でも、あらゆるものが見えてくる。落ち葉。友人の態度。湖水のさざ波。山積みの石。廃墟。通りの人込み。星降る空。何もかも。わたしが見た後、わたしの見た光景を言葉にしようとだれかが手を差しのべるかもしれない。でも、わたしは首を横に振る。いや、そうじゃない。それはもう一つの公式にすぎない」(アントニー・デ・メロ)3-92

† 自分で見るということ。自分の頑なな思い込みや他人の分かったような説明を排除し、自分のすべてを通してもの・ことと対するのだ。この感覚が大事なことなのだ。

‡ それは、今まで考えていたこと感じていたこととは相違するかもしれない。また一般的に言われていることとも違うかもしれない。だが、今あなたが感じていることを信じて、じっくりと見てみる。すると気づくのだ。あ~っ。

洗脳体験をナラティヴに32

「わたしが感知することは、他人から与えられた公式にも、自分で編み出した公式にも当てはまらない。言葉にすることはできないのだ。では、師は何ができるのだろうか。現実をわたしに示すことはできないが、現実でないものをわたしに気づかせてくれる」(アントニー・デ・メロ)3-91

† 自分の感じていることと教えられていることの相違があることがある。つまり、AというのはBということだと教えられてきた。しかしCという感じがするというものだ。また、個人にも思い込みがあり、頑なな見方しかできなかったら本当に見られないだろう。

‡ その際に、師ができることは限られてくる。つまり「愛する」ならば、愛でないことの例示に留まるのだ。「愛」が説明できないからくることなのだ。愛とは○○と語る、自称・宗教家たちの危険がそこにある。

洗脳体験をナラティヴに31

「実は、自分の体験を正確に伝えることのできる言語は、人間の言葉にはない。その体験や音楽や詩や絵で伝えようと試みるかもしれない。しかし、心の中では、自分が見て感じたものをそのとおりに理解してくれる人はひとりもいないとわかっている」(アントニー・デ・メロ)3-89

† 言葉と概念は密接に関わっている。言語の発達・獲得とともに概念化することで、文化・文明を切り開いてきたのが人間の歴史であるといっても過言ではない。しかしである、本当は言葉の無力さを知っているからこそ、人間は体験や経験をも重視してきている。

‡ 愛することの理解はできても、愛に生きることは至難の業なのだ。その愛という概念も、いくら厳密に考えても分からないものだ。それを補足する意味で、芸術というツールを使って伝えようとするのも人間の営みなのだ。

洗脳体験をナラティヴに30

「そして、公式を手にしたとたん、わたしは他人の考えというふるいにかけられた現実を手にすることになる。わたしは衰えてゆき、ついには自分自身で見ること、学ぶことの意味を悟らないまま死んでしまう」(アントニー・デ・メロ)3-89

† 他人の公式とは、与えられた概念でものを考えるようにということだ。こうした生き方をしないさいとばかりに、自らもできないような教えをする自称・宗教家らには、できないことを押し付ける方が自らの立場を強固な立場にするということを知っている。

‡ その結果として信者らは思想・信条に殉教していくのだ。真に大事なことを語らない、いや語れない自称・宗教家に注意すること。それ以上に自分自身の目で見ることの意味を知らなければならないだろう。

洗脳体験をナラティヴに29

「しかし、ほんとうに重要なこと、つまりいのちや、愛や、現実や、神について、わたしに何か一つでも教えられる人は、ひとりもいない。他人ができるのは、わたしに公式を授けることだけである」(アントニー・デ・メロ)3-89

† こうした指摘ができる宗教家が今、果たして何人いることだろうか。それぞれの自称・宗教家たちは自分の作った公式を金科玉条にし、こう生きなさいと言う。しかし、デ・メロ師の語るように、大事なことを教えることは実は無理なのだ。

‡ いのちが何なのかは分からない。愛が何なのかは分からない。そうなのだ。それを分かったように説明し信者に課すことの愚かしさを知らなければならない。

洗脳体験をナラティヴに28

「日中目ざめている間ほとんどの時間、人々をなだめすかし、機嫌をとって過ごしている自分の姿を見つめる。わたしは彼らの規範に従って生き、彼らの標準に自分を合わせ、彼らの仲間づきあいを求め、彼らの愛を望み、彼らの嘲笑を恐れ、彼らからの拍手喝采を夢見、彼らの課す罪悪感にすなおに屈している」(アントニー・デ・メロ)3-84

† デ・メロ師の書いていることに異議を唱えることは簡単である。人間は集団で生きる生物であり、それが長い生存競争を生き延びた要因であるということだ。だから、他人にどのように見られるかや振る舞うかは死活問題とも言える。ただ、そのことのみで生きるならば人間に与えられた個性は必要ないだろう。

‡ 神や仏をたてることで、人間を相対化することが宗教の目的の一つではないだろうかと考えている。人間のみ、また、組織(人間のかたまり)のみだけではエゴの闘いに終始してしまう。そこから別の視点を得て生きることが、狭いエゴからの脱却には必要とされるだろう。

洗脳体験をナラティヴに27

「それ自体がわたしを楽しませ、わたしの魂をつかんで放さない、ただそれだけの理由でいそしんでいる活動が自分の生活のなかでいくつあるか、数えられるだろうか。そのような活動を発見し、はぐくんでゆく。それらは自由と愛へのパスポートとなる」(アントニー・デ・メロ)3-86

† あなたが本当に寛げるもの・こと・ヒトと出会っているだろうか!? そのような問いをデ・メロ師は投げかけている。生活のための仕事ではなく、見栄を張るような趣味でもなく、時間を潰す娯楽でもないもの。自分らしい時間を確保できているだろうか。

‡ 子どもは、遊びの天才だといわれる由縁は、好きなことに没頭することができるからだろう。それは、将来役立つとか就職に便利だとか資格を得られるといった大人の打算とは違うものだ。自分が本当に時間を忘れて取り組めるものを持つことが、打算を打破し自分らしさを発見することに繋がる。

洗脳体験をナラティヴに26

「世間一般の根強い信念とは裏腹に、愛の欠如と孤独に効く治療薬は、人づきあいではない。『現実』との接触である。この現実に触れる瞬間、わたしは自由と愛の正体を知るだろう」(アントニー・デ・メロ)3-87

† マザー・テレサも生前から現代では物質的な飢えよりも愛の欠如や孤独が広範な拡がりをみせ、人間に絶望感を与えていると述べていた。その処方箋は、マザー・テレサにとっては隣人を愛することを広めることだろう。ここでデ・メロ師が語っていることは、それと矛盾するわけではなく根本を見据えるということだ。

‡ 孤独とは、人づきあいがなく淋しいという感情の問題ではない。人間や自然にまでに至る気持ちがなく、自分自身に拘泥してしまってにっちもさっちもならない状態だと言える。「現実」との接触とは、置かれている全てのものを知り受け入れるということ。それが果たされるとき、人間は独り切りではないことに気づくだろう。そうした自覚した人間が他人と接していくことが自ずと「愛」と言われる行動になるのだ。
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