セラピストたちが語りたがらない10の事実

セラピストたちが語りたがらない10の事実
2013年 7月 30日 ウォール・ストリート・ジャーナル
By QUENTIN FOTTRELL

 1.「診療費を見たら不幸な幼少期を忘れられるかもしれない」

 米国医師会が出版する精神医学専門誌JAMAサイキアトリーによると、米国では精神的な助けを求めている人の40%がソーシャルワーカー、精神科医、精神分析医の診療を受けるという。しかし、こうした診療は決して安くはない。決まった診療費というのはないが、セラピストたちは1時間で75ドルから250ドルまでの幅があると話す。ウィスコンシン大学マディソン校の精神医学の臨床学教授、ブールス・E・ワムポルド氏が審査した調査によると、米国人は実際に、あらゆる種類の精神療法――人間関係カウンセリングから認知行動療法まで――に年間100億ドルほどを費やしているという。

 2.「私はいかなる研修も受けていないかもしれない」

 資格を有する精神分析医や精神科医、免許を受けた臨床ソーシャルワーカーになるには数年間の研修が欠かせないが、占星学や哲学の夜間コースを受講した人が自らをセラピストと称することを防ぐ手立てはほとんどない。セラピーという言葉は、多くの職業や問題を含む包括的用語なのだ。スクラントン大学の心理学の教授、ジョン・C・ノークロス氏はセラピーを職業的というよりはむしろ説明的な言葉だと指摘する。実際のところ、誰しもが自分のことを「セラピスト」と宣伝し、名刺にその肩書を入れ、ウェブサイトを開設して人々が電話してくるのを待つことができる。「精神衛生のサービスは、自分が住んでいる州から開業免許を受けている専門家から受けるべきだ」とノークロス氏は提案する。

 3.「しゃべり続けるのはやめてほしい」

 1回につき45分から60分、患者の話を聞くのがセラピストの仕事だが、それがいつも簡単なこととは限らない。というのも、特にセラピーを受けている人たちは、その日にあった些細なことにイライラしがちで、本当の問題ではなく、それについて長々と話し続けるからだ。ユタ州ソルトレークシティーにあるワサッチ・ファミリー・セラピーのオーナーで代表を務めるジュリー・ハンクス氏は「ときおり、心の底から退屈することがある」と話す。そうしたごくまれな退屈にも良い面がある。何かがうまくいっていないということをハンクス氏に教えてくれるのだ。そんなとき同氏はこう自問する。「この患者へのアプローチをどのように変えるべきなのか」

 患者ではなく、セラピストの方が本当の問題に適切な注意を払っていないということもまれにあるのだ。

 4.「あなたが私を必要としている以上に、私はあなたを必要としている」

 数回の診療後、セラピストが診療の追加を勧めることがよくある。だが患者はそこを離れるときを知らせる合図に気付くべきだと業界関係者は言う。たとえば、「セラピストがあなたを金銭的に必要としている」と感じたり、自分では良くなったと感じているのにさらなる診療を押しつけてくるときは「セラピストを代えた方が良い」とハンクス氏は言う。大半のセラピストは本気で他人を助けたいからこの職業に就いているが、不景気のせいで患者を手放しにくくなっていると同氏は指摘する。経営難に陥っている――または別の患者で空き時間を埋められない――セラピストは特に既存の患者から追加の診療費を搾り取ろうとするかもしれない。

 5.「セラピーが必要なのは私の方かもしれない」

 自分のセラピストは自分と同じくらい多くの問題を抱えていると不満を漏らす患者が後を絶たない。たとえばある患者の診療が終了したとき、セラピスト自身が共依存関係の兆候を示す場合がある。ニュージャージー州ウェイン在住の家族カウンセリングセラピスト、キャシー・モレリ氏がニューヨークのセラピラストに、結婚してニュージャージーに住むのでもうこちらには通えないと告げた時、そのセラピストはモレリ氏のために喜ぶどころか、40キロぐらいの距離で通えなくなるのはおかしいと言った。「そのセラピストは夜なら診療を受けに来られるはずだと散々文句を言った。とても奇妙だった」とモレリ氏は振り返る。

 6.「朝のランニングにも同じくらいの効果があるかもしれない」

 ちょっとした運動にも大きな効果がある。『Exercise for Mood and Anxiety(気分や不安のための運動)』を共著した南メソジスト大学の心理学の准教授、ジャスパー・スミッツ氏とボストン大学の心理学者、マイケル・オットー氏によると、軽度から中等度のうつ病に対する定期的な運動には認知行動療法に似た効果があるという。両氏は運動と精神衛生に関連した多くの集団ベースの研究や臨床研究の結果を分析してこの結論に至っている。

 7.「患者にさせているからといって自分がする必要はない」

 大学のプログラムや州の認可機関によっては、精神衛生の専門家にセラピーを受けることを義務付けているところもあるが、これは全国共通のルールではない。セラピストが開業前に精神療法を受けることを義務付けていない州にはユタ州やカリフォルニア州などがある。自らの施設で働くセラピストにこれを義務付けているハンクス氏は、患者が経験していることを理解するためにもセラピストがカウチに寝そべることは非常に重要だと話す。「自分が進んでやりたいと思わないことを、患者にさせるわけにはいかない」と同氏は言う。

 8.「あなたの秘密が漏れることは(それほど)ない」

 ほとんどの患者は診療内容に関して秘密が守られると思い込んでいる。ところが、こうした診療内容は公にされることが意外と多い。患者が配偶者や同僚による心や精神のダメージを主張している場合、離婚訴訟や雇用紛争の証拠の一部としてセラピーの記録は公になり得るが、セラピストたちによるとこうした法律も州によって異なっているという。

 9.「私はあなたの力になるが、保険はきかないかもしれない」

 健康保険会社はカバーするセラピーの回数を制限することができ、顧客が完全に良くなる前に、診療をしきりに終わらせたがるかもしれない。マサチューセッツ州アーリントンの臨床ソーシャルワーカー、ジョセフ・ウィン氏は診療費の支払いを保険に頼るのは患者にとっていつも最大の利益になるとは限らないと指摘する。「保険会社は患者やセラピストが適切と感じることとは関係なく決定を下す」と同氏は言う。業界団体、米国医療保険協会の広報担当者、スーザン・ピサノ氏によると、追加の診療の費用を提供しないという保険会社の決定に納得できなければ、顧客は審査を請求することができるという。

 10.「時間が来たので薬を出しましょう」

 複数の研究は、精神衛生問題の治療において薬剤の使用が急増してきたことを示している。米国医師会が発行する医療専門誌に掲載された2008年の研究によると、2005年にすべての患者に対して会話療法を用いている精神科医――ソーシャルワーカーやその他のセラピストと違って薬の処方が許可されている――の割合は1996年の19%から大幅に減少してわずか11%だった。同期間に会話療法が目的で精神科医を訪れる患者の割合もやはり44%から29%に減少している。その研究では、精神科医が保険会社から受け取る診療報酬は、45分間の精神療法よりも15分間の処方診断の方が多いということもわかった。


・精神分析や類する商売で生活できる国はそれほど多くないのではないかと思ってしまう。日本では、その補完として呪術や各種占い、また新興宗教などが悩める人たちに安心を提供している。

この記事を踏まえて日本の現状を考えると、例えば心療内科医なる人たちがいて、特に身体の面から精神的疾患の治療を行う。ところが、その学会認定は全国で僅か700名程度しないないのだ。

そして神経科と看板にあっても、実は大学医学部では精神医学や心身医学を専攻していなくても開業では問題ないのだ。医師免許さえあれば、どのような科目で診療してもいい。だからウツ病が流行っている現在では、精神科クリニックと称するところも専門医でない可能性すらあるのだ。

日本でも顕著になっているのは、記事10にある大量処方の問題である。そして精神療法としてのカウンセリング時間が極端に減少し単に薬のみを出すだけになってきてしまっている。

その処方薬による副作用も大きく、新たな問題も起こしており学会も警鐘を鳴らしているが、それが開業医や病院の大きな収入となるならば誰が患者の健康を優先するのだろうか。

この記事をながめて思うことは、治療者たるセラピストを名乗る人たちに本当に頼っていいのかという疑問と、所詮、精神的な悩みや身体的な不調は自分の生活習慣に依拠するために、自ら気づき少しでも修正する以外にはないと知ることだと考える。

いわゆる精神医学の対象とすべき統合失調症などと、他の疾病からくる不安や身体的な症状との鑑別をできる医師らが、医療資源を適切に活用して全てを抱えないようにしないと診療行為はできないのが日本の現状である。

また日本では心理分野の国家資格は存在しない。学界資格と山ほどの民間資格があるが、その多くは臨床経験がいらない、言わばお金で買える机上の資格であり実用性はほとんどない。

よく心理学者は人間の心理を熟知しているという紹介があろうが、私は全く信じていない。これだけ複雑な心を持つ人間がどう行動するのかが理解できていればきっと世の中は問題が少なくなっているはずだろう。


一部参考
心療内科はまだ歴史が浅いため、日本の心療内科医の人数は精神科医に比べて圧倒的に少なく、2012年8月現在では、「日本心療内科学会」認定の専門医は全国で129名、「日本心身医学会」認定の専門医は全国で586名というのが実情です。

心療内科医に聞く。街に心療内科が急増しているのはなぜ?
2012/11/10 マイナビニュース

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私の自己反省21

「いわゆる自我には小我と大我があることを知らずに、自分は、自我というものを、他人との比較相対の上に立っての、相対的自我としてしか理解していなかったのではないか。大我とは、他人との比較相対をはなれたときに働いている普遍的な自我であるが、それが今日までに、体験的にわからなかったのではないか」(水谷啓二)

・いわゆる神経質な人間は、自分の欲望に鈍感なところがある。自分の本当の欲求を知り、それが実現可能かどうかを判断する材料として、自分と他人の区別ができる方がいい。その欲求も、自己保存本能に根差したものなのだろうか、それとも、社会性を拡張し自分の存在と社会の融和を目指すものなのだろうか。

私の自己反省20

「人間らしい生活においては、目的とそれを達成する手段とは、一体不二でなくてはならないが、それを前後的に考えていたのではないか。たとえば、山に登るのに一歩一歩登るのは手段であり、頂上をきわめるのが目的であると、とするならば、途中の苦痛はやり切れないもに感ぜられ、あるいは、ヘリコプターで頂上に達した方がとくだということになるであろう。そういう功利主義的な考えにとらわれて、一歩一歩を楽しむことを忘れてはいなかったか」(水谷啓二)

・手段が目的化することがよくあります。サービスは、それを補完するものであり金を払えば多くのことが出来る時代になりました。ただ、自分の人生を生きることは誰にも代わってもらうことはできません。

私の自己反省19

「自分は、個人主義的な思想から脱皮できないで、学校でも会社でも人に負けまい・人に勝とうとするあまり、人を押しのけても偉くなろうとして、対人関係が敵対的となり、調和に欠けることろがあったのではないか」(水谷啓二)

・水谷氏の生活した頃は、まだ日本人の和が実感できる時代にあった。だから調和という日本人の美徳と結びついた生き方が無理ないものと考えられたろう。ところが、最近では個性的であることや自分だけということが流行のようだ。ただ、それが果たして個人主義なのだろうか、個々人がバラバラにされているだけなのだろうか。

私の自己反省18

「自分は、当たり前の日常生活の実際を軽んじて、きれいごとの宗教的信仰や左翼的あるいは右翼的思想などにかぶれてはいなかったか」(水谷啓二)

・この文章を書いた水谷氏の時代背景が感じられる。当時のエリート層にとっては、大正期のキリスト教信仰や戦争を背景とした右翼や戦後の左翼思想などの大きなうねりの中にあった。それは、アタマ中心の理屈であり人間から遊離したからこそ飽きられてしまった。そこで大事なことは日常を重視した生活から生まれる知恵に基づくことだろう。

私の自己反省17

「自分は、部分と全体をとりちがえた認識不足に陥ってはいなかったか。例えば、自分が学校の成績とかスポーツとか、特殊の技能とか容貌とか、何か部分的に優れていることをもって全体的に他の人よりすぐれているかのように錯覚し、うぬぼれたエリート意識にとらわれていたのではないか」(水谷啓二)

・部分と全体という問題。優越意識を持ったときに、人間は錯覚する。特にアタマ中心の人間は、アタマの世界だけが全てと思い込んでいる。

私の自己反省16

「自分はこれまで、不安をなくすることによって安心を得ようとし、憎悪をなくすることによって愛情を得ようとし、煩悶をなくすることによって解脱を得ようとし、苦痛をなくすることによって安楽を得ようとし、しかもこれが正しく可能なことであると思い込んではいなかったか」(水谷啓二)

・いろいろな感情をどう処理するかという問題である。その際に間違った対応すれば、さらに事態が悪化する。その際のポイントは、アタマや理屈といったものの叫びと身体からの叫びを見極めることだろう。人間の感情は簡単にどうにかなるものではい。不安をなくすことは精神力を鍛えることよりも、もっと身体を緩めて生活しようというシグナルかもしれない。

私の自己反省15

「あるいはまた、それとは反対に、自分に人間らしく生きようとする向上心が働いていることを無視して、単に食欲・物欲・性欲などの・動物的欲望の満足だけに生きるのが、正しい生き方であるかのように・思い込んではいなかったか」(水谷啓二)

・森田セラピーにおける基本的考えに「人間は常に向上心持って生きようとする」とするものがある。この考え方については全面的に肯定できないという意見もあるだろう。向上心のない人たちはいるからだ。日本人の明治・大正時期における時代の考え方もあるだろう。ただ、こうした肯定的な人生観を持つことも必要なことではないだろうかと考える。

私の自己反省14

「食欲や性欲や物欲や名誉欲は、人がその生命を全うするのに大事なものであるのに、自分はそれを良くないもののように思い、それをなくしよう・押えようと無理な努力をしてはいなかったか。あるいはまた、そういう欲望をなくすことが立派な人間になるための・正道であるかのように思い、さらに、自分はそういう欲望から超越することができたかのような・思い上がった錯覚にとらわれていたのではないか」(水谷啓二)

・欲望とは古い脳が司る領域であり人間の根源にあるもの。それを排除することはできないし、その古い脳をコントロールするために新脳が発達した。どちらが優位でもなくバランスの問題だろう。欲望は果てしないものだが、充足すれば止まるものだから野放図になることはないだろう。心の問題を持つ人たちは、こうした事実を認めてつきあうことであり、失くそうとか押えようという過度のエネルギー浪費がバランスを崩す原因となってしまう。欲望は上手に利用し自分の向上の動機づけにすればよい。欲望に振りまわされるのも理性に振りまわされるのも辛いものだ。

私の自己反省13

「自分は、人あるいは生きものを愛し育むことを怠りながら、いたずらに自分に対する・他の人びとの尊敬や愛情・保護や賞讃などを求めすぎてはいなかったか」(水谷啓二)

・人間の関心は他人どう見られるということ。これを逃れられる人は多くはいない。特に日本人は同質性の高い民族であり、ムラ社会の伝統は残っている。しかし、自分とは自分でも分からぬ者であるし、ましてや他人の移り気な判断を頼っても仕方がない。
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