【重要】藤木正三師の想い出

長く療養を続けてこられた藤木師が2015年1月に昇天されました。

藤木師との交流の中で、師から頂いた自筆の便りをいつも手元に置いています。

その細かな字は、藤木師の繊細な性格をよく表していると感じます。

師の残された文書を読むと、背筋がピンと張りつめる心地になります。

「究極的な人生態度」という実に難しい課題を生涯にわたって探求し納得した生き方でした。

むろん宗教には、各人ごとに異なった見方があり一致できない点もあろうかと思います。

ただ宗教の根底に流れている言葉にならない「いのちの働き」を共有することはできるかもしれません。

稀有な言語能力を持ち、卓越した思考力を持った藤木師の残された文書には、その一端があります。

晩年によく引用されたキリスト教詩人・島崎光正氏の詩

   自主決定にあらずして
   たまわった
   いのちの重さを
   みんな湛えている

自分を中心に据えず、与えられたそのままを受け止め、委ねて軽く生きることを願った藤木師は、今や「いのち」そのものになったと言えるでしょう。


教団新報【4819・20号】消息 2015/04/25

藤木正三氏(隠退教師)
15年1月22日逝去、87歳。大阪府に生まれる。55年に関西学院大学院を卒業、同年より暁明(64年千鳥橋、80年西九条と改称)、京都御幸町教会を経て93年に隠退。遺族は息・藤木大三さん。


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【追記】
朗報となりますが、下記のサイトで藤木正三師の「断想」シリーズ作品を読めます。

サイト管理人・本多 謙さんが書かれていることによれば、藤木師が牧会されていた御幸町教会にあった学生寮に3年10ヶ月お住いで藤木師のご家族とも親交があったということです。

そして「断想」掲載にあたって、ご遺族の了解を得ている旨が記されているので、安心して利用することができます。

本多さんによれば、藤木師を含めた昔の貴重な説教を音声で聴けるサイトを構築したいということである。

このプロジェクトは「断想」シリーズに限定されるのかは不明でありますが、御幸町教会発行版のものを使用しているなど資料的に貴重なものであると感じます。

「断想」に折々触れることは、自らを弁えるための作業として不可欠なものと感じ、今回の文字起こしに感謝するものであります。

藤木正三師の著作集は、中古本市場で僅かであるが出回っているものの非常に高価な価格設定がされており、簡単に入手できる訳ではない状態が近年続いている。

私が、藤木師の紹介を含めて「断想」について想いを書く理由は、これら中古本を読者の方々がどこかで縁あって入手できることを期待するためである。

今回、藤木師の著作の一部でも閲覧できることで、さらに多くの方々の目に触れることを期待するものである。

それから、これも2017年1月に《ウィキペディア》に「藤木正三」の項目が出来たようで汎く利用されることになりそうです。

2017年2月1日 たれプーさん♪


e教会 は良い教会 (ekyoukai.org)  http://www.ekyoukai.org/
 [管理人・本多 謙]

・個別のリンク

 藤木正三牧師の思いで (2017/1/13)
 http://www.ekyoukai.org/FujikiShozo/FujikiShozo.htm


著作集

(2017/1/11)(1/28追加)(4/20追加)(5/3)(6/25)(8/14書評等)(8/16講演録音等)(8/27説教録音)
(9/5)

① 灰色の断想 【テキスト版】
  http://www.ekyoukai.org/FujikiShozo/HaiironoDansou.htm

② 続 灰色の断想 【テキスト版】
  http://www.ekyoukai.org/FujikiShozo/Zoku%20HaiironoDansou.htm

③ 灰色の断想―神の風景 【テキスト版】
  http://www.ekyoukai.org/FujikiShozo/KaminoFuukei.htm

④ 灰色の断想 福音は届いていますか 【テキスト版】
http://www.ekyoukai.org/FujikiShozo/FukuinHaTodoiteImasuka/FukuinnhaTodoiteimasuka.htm

⑤ 教会生活の手引き 教会の職務 【PDF版】
  http://www.ekyoukai.org/FujikiShozo/KyoukainoShokumu.pdf

⑥ この光にふれたら 【テキスト版】
  http://www.ekyoukai.org/FujikiShozo/KonoHikariniFuretara/KonoHikarinaFuretara.htm

⑦ 生かされて生きる 【テキスト版】 
  http://www.ekyoukai.org/FujikiShozo/Ikasarete-Ikiru/Ikasarete%20Ikiru.htm

⑧ 真っ直ぐに創造を信じる 【テキスト版】
  http://www.ekyoukai.org/FujikiShozo/MassuguniSouzouwoShinjiru.htm



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藤木正三 師の断想から考察される宗教との付き合い方

藤木正三師の考え方のポイントは「納得の福音、限界性の福音」と形容されるのではないだろうか。それは今後の信仰にあり方にヒントを与えてくれるものだと思います。

個別性を重視する、だがどこまでも絶対視しない。それが限界性であり自分の納得なのです。言語の持つ限界、人間の処理能力、本能との軋轢など人間はさまざまな制約下にしか一時たりとも生存できません。その人間が永遠を考えることの落差こそが、優れた芸術・文化を生んできたし宗教も憧れとしては最適な古典でしょう。

その葛藤のなかでずっと生きることが人間存在の原点になることは予想されます。安易に宗教を論じることは極めて誤解を生みやすく難しいことです。

とかく日本人にとって信仰とは、「疑わないで信じる姿勢」という強迫観念が強く、それが自分を縛り抑圧することが大きな誤解のもととなるのでしょう。ただ人生とは極めて曖昧であり、何が成功であり失敗なのか、大事なことが些末なことか等は分からないものです。

ところが誰か権威ある存在に、その外枠を示し決めてもらうとずっと安心できるのが人間心理なのかもしれません。そうしたものが成文化し体系づけられたゆえに強固になり、時代により解釈次第で揺れ動くというのが人間の歴史なのでしょう。

「不信仰を恥じて」抑圧する人がいると思えば、一方で「強固な信仰を抱いている」とし他を抑圧していても全くそのことに鈍感になる人と両極端になるようです。ただ宙ぶらりんなところ、グレーゾーンにおいて何とか生きる真実のホンの一部だけが見つけられるという物事の本質理解は一般的ではないようです。

宗教の求めることは平安であり悟り・気づきであると言われています。例えば禅などで「悟る」といいますが、大きな誤解は悟るというのは一瞬の話であり、悟りを得ても持続できるわけではないということです。小さな悟りを積み重ねることがかろうじてできる余地はあるものの、その後も迷ったり疑ったりするのが本当のところであり、それを言わない宗教者はずるいと思います。

また宗教者の暴力ということはもっと議論されるべきテーマであると考えます。その隠された権力性を本来暴いたのがイエスの言動なのですが、同じことに躓いているようです。上から語る宗教の大義は、宗教者の語る動機・内容が実は自らの強い欲求の発出であることを自覚できないことが致命的なことです。

イエスは教義も大組織も何もあえて残さなかったのが正解でありましょう。誰もが自らをイエスとして生きてゆく、つまり自分を拠り所として納得したことを信じ行っていくことが大事でしょう。ただ前提として社会が執拗に教え込むものから捉われていない場合にしか有効ではありません。

これからは宗教組織中心から個別主義になっていくという流れは期待されることですが難しいのではないかと感じます。組織の持つ固有の問題は人間が出現してから解消されていません。それよりも組織の持つ問題を客観的に把握し、それとの距離感を適度にとる個人個人のあり方があるだけです。それは時代を超えた生き方であり勇気を持ってやっていくしかないでしょう。

自分を投げ出していく姿勢も求められるのが宗教でありますが、何でも言われてことを鵜呑みにすることや思考停止に置くことではありません。イエスの言われた「真理はあなたを自由にする」という意味を再度思い起こしたいものです。つまり、あなたの全てを解放できるものであることが必要でしょう。

納得できることを行っていくこと、だが絶対のものはないという弁えを持つことが極めて重要であります。藤木師の断想集は納得できる言葉の宝庫です。人間存在を冷徹に見つめて、そこから湧き上がる限界こそが神(大きなイノチ)を実感するという喜びであり、かろうじて人間が人間でいられる位置でありましょう。

「振り返ること」と「自粛」

自 粛

その日、堂島川の水面は初夏の午後の陽ざしに眩しいば
かりでした。エイトを漕ぐ若者達の声は、阪大病院四階
にまで聞こえました。たしか土曜日であったと思います。
OL達のさゞめきが、勤めを終えた開放感を乗せて、こ
れもよく聞こえました。母の死んだ「その日」、世間は
全く明るく、無関心に日常的でありました。何らかの自
粛をしてくれるはずと思い込んでいた世間の思いがけな
い一面に、心は衝撃で真白、粛然としました。「その日」
自粛すべきは、先ずは「その日」を迎えた本人でした。
人はひとり自粛して死ぬのです。


『命はどこででも輝く』(『福音はとどいていますか』第一部、合本、ヨルダン社)23頁


藤木正三師のご母堂様の最期を示した、この断想はその心情を風景を交えて記述した断想としては珍しいものです。

私たちは社会、家族、個人という単位で生きています。この断想に如実に表現されているように私たちが、いつも気にしている社会=世間というものは、影響を受けているようで実はそれほどのものではないのかもしれません。

家族の不幸という大きな出来事も、実は社会にとっては変わることのない日常の一コマであり他人ごとに過ぎないという厳然とした事実。

誰もが、毎日の生活を必死で行っている姿と目の前の母の死のギャップは誰しも一度は経験することかもしれません。ただ、このような心情を書いた人は私は他に知りません。

見ず知らずの方の生死を想うことは不可能としても、関わりを持った方の生死に関しては関心を持ちたいと思うものです。

藤木正三師は別の書籍で、振り返ることの重要性を説いています。キリストが磔刑になり死んで弟子たち信者らは、それぞれの行動をとりました。その最中に彼らが思いだしたのは、イエスの今まで自分に関わってくださった言動・行動の一つ一つでした。

それを振り返っていった時に彼らは気づいたのです。イエスが生きている間には気づかなかった大切なことに。そして彼らは再び生き直してイエスの生涯を伝えるべく活動を再開したのです。

復活の意味は、実はここにあり、生物的に死んだものが再び生命を得たということではないのです。

一人一人の心の中で、人との出会いや共に生きた時間を確認することで、自分に与えられたものの豊かさに気づくこと、そして限りあるものとして同じように生きることを促されることであろうと、私は感じています。

振り返るとは、過去の反省をしましょういう表面的なことでなく、今まで自分が生きてきた偶然性が実は必然性を伴っていたことに気づくこと。今ある自分に納得し肯定し受容する作業であります。

すると、すべての物事の見方が変化を遂げるのです。宗教の説いていることは、そこに帰着します。

追記
復活の解釈については異論もあろうし一般的なキリスト教の解釈ではないことは承知の上で私見を述べている。この復活こそがキリスト教の神髄と考える人たちも多く復活がなかったなら、そもそも希望そのものがないという見方だ。

つまり人間が死を克服できることに宗教の意味を見いだしているわけで、それが実現するのは来世であったり天国であったり、または現実世界であったりと考え方もさまざまだ。

また過去の記憶を持つ子どもたちがいるという真面目な研究もあり、復活や輪廻転生については様々であり、信じる一人一人が違った思いをお持ちに違いない。

ただ私は、そうしたことを踏まえても復活は、誰かが自分自身の中に生き続けるようなこと、それは時間・場所を超越した神秘であると考えている。復活の表面的な記述の奥に書かれているのは人間の連関をつなぐ神秘なのではないだろうか。

人間の肉体は限りがあり永遠に再生できるわけではない。また宇宙が永遠であるとも思わない。永遠とは時間の世界を超越した何かであり、復活はその世界に気づいて生きるということなのではないだろうか。

追記
人はすべからく 終生の師をもつべし。
 真に卓越せる師をもつ人は 終生道を求めて 歩きつづける。
 その状あたかも 北斗星を望んで 航行する船の如し

 森信三(哲学者)

神の風景-人間と世間-126

「教会とは、雑然としたものが互いにいたわり合って調和してゆく、そのこと自体を目的とした団体なのです」(藤木正三)2-148教会の目的

・宗教組織に対する藤木師の見識。何を目的に集っているのだろうか。政治目的達成、節税目的達成、社会活動、親睦団体…宗教は日常のこととよくよく考えましょう。十字軍のようなものが一方にはあろうが、教会は本当に集団力で信仰を求めることができるのだろうか。

神の風景-人間と世間-125

「喜びを一人占めしないで共に喜ぶ横への方向と、自分の成長を独り喜ぶ上への方向と、足るを知って与えられたものを喜んで引き受ける下への方向と、この三つの方向を自覚しているなら、とやかく言うことはないでしょう」(藤木正三)2-147三つの方向

・キリスト者は十字架の象徴として上なる神と横なる隣人を愛することを知っている。藤木師の視点では、下への方向性が加味される。自分を抑える下への意味を考えてみたい。十字架は天から地上にくる神の象徴なら、地上から足下を照らす象徴もあっていい。

神の風景-人間と世間-124

「わかっちゃいるけど止められないといったところが、私たちにはあります。事実はそうなのですから、行く所まで行ったとしても、別に駄目だというわけでもありますまい」(藤木正三)2-146悲しい手続き

・そう、行く所まで行ってしまうのが人間なのです。あれ、これも惰性で不養生しているのが私たち。まっさきに手を挙げている自分自身を思います。どうにも止まらない、それが普通の人間です。お互いに迷惑をかけているのですから、多少の辛抱もいります。

神の風景-人間と世間-123

「常識とは、時と所と人を超えた、人間らしさの約数ではないでしょうか。侮るにはあまりに重く、むしろ心すべきものです」(藤木正三)2-145常識

・常識にもいろいろあります。この場合は生きることの制約でしょう。ただ、○○の常識は世間の非常識と言われているものがあります。その常識がホントの基準であるかを見極めたいものです。人を縛るためにある常識に注意したいものです。

神の風景-人間と世間-122

「色々な宗教があります。似ている点もあり、違っている点もあります。その為に、相違点を強調し、自分の信じる宗教の独自性、更には唯一性を主張することになるのですが、共通点をこそ大切にしましょう」(藤木正三)2-144諸宗教

・宗教を花に例えると、自分だけが本当の花だと競って咲いているわけではないと藤木師は語ります。桜だけが花ではありませんね。雑草にも生命力を感じます。いろいろな人間がいるわけで、それぞれが信じた道を歩めばいいのでしょうが、大事なことは分かりあえる点があるということです。それは人間の弱さを認め合うことでしょう。

神の風景-人間と世間-121

「人生とは結局、現在に与えられているだけのことです。この単純な、生かされているという事実を引き受ける道が、一日の苦労です。つまり自分に成り切ることです」(藤木正三)2-143一日の苦労

・一日の苦労で十分だとイエスは語りました。過去を悔み未来を憂う毎日で、今という現在を見失っているのが私たちです。単純な生に気づくことと生きることを求められる時代です。

神の風景-人間と世間-120

「もし本当のものに出会いたいのなら、それは間違いなく、間に合わせでも引き受けて生きるところにあるでしょう。人生は自分の手の中にないのです」(藤木正三)2-142間に合わせでも

・ホンモノを求めて生きてきました。そこで分かったことは、自分自身の判断力がいかに貧弱であるかということでした。ホンモノの生き方・思想・人たち…という幻影に振り回されてきました。ホンモノは実は自分自身の内にあるイノチの働きを知ることだと気づきました。

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